千代崎川七橋

【注】この稿は2006年以前に作成したもので、これらの橋は平成22年(2010年)暮までに、立野橋と大和橋の親柱またはその基部を除いて、すべて撤去されました(2011年1月加筆)。

最初に断っておきますが、このような名前の旧跡は存在しません。私が勝手に子供の頃から見覚えのある七つの「橋」をピックアップしただけのことです。昭和30年代後半に千代崎川に覆蓋が付けられてからは橋としての機能を失いましたが、その残骸が、わずかにかつての面影を留めています。いずれも関東大震災後の昭和2〜3年に竣工した橋で、破壊は戦災(空襲)によるものと思われます。
 

大和橋(やまとばし)

七つのうち最も西寄りにある橋で、旧「鉄砲場」、つまり現在の大和町へつながる橋です。親柱の1本だけが残っています。地元の年輩のひと以外には、たぶん、これが何なのかもわからないでしょう。
(2003/5月撮影)

■この親柱の対角に、商店の看板をかぶせられて見えなくなっていますが、もう1つの親柱が残っているようです。(2011年2月加筆)

 

立野橋(たてのばし)

わずかに1本の親柱の根本だけが木の切り株のように残っています。この橋が掛かっている道は昔の根岸村と北方村の境にあたり、手前側は上野町、突き当たりは立野町です。
(2004/3月撮影)

昭和30年代の初めだったか、この橋のあたりで映画撮影中に自動車が川に落ちる騒ぎがありました。さいわい、大きな怪我人は出ませんでしたが、主演の俳優さんが怪我をした人たちの家を謝罪に回っていたのを思い出します。

【注】上記の映画は1955年(昭和30年)公開の大映映画『弾痕街』ではないかと思います、主演が菅原謙二さんだったことを手掛かりに、Web で調べてみました(2011年1月加筆)。


五月橋(さつきばし)

この橋は、大きな道の延長上にあるものではありません。近隣の住民が手っ取り早く川の向こうへ渡るために作られたような橋です。私も子供の頃、父親に連れられて毎日夕方この橋を渡り、銭湯へ通いました。名前の由来は竣功が昭和2年5月だったことによると思われます。北西側から撮った画像。
(2004/2月撮影)

 

西ノ谷橋(にしのやばし)

鉄パイプの手すりとコンクリートの束柱が、かなり原形を留めています。右へ行って突き当たりが西之谷町になります。少し先の白い建物の手前に、次の「上野橋」があります。これら七つの橋は、ほぼ50メートル間隔で並んでいます。南西側から北東側を見たところ。
(2003/2月撮影)

 

上野橋(うえのばし)

この橋から東側、つまり本牧寄りの橋は、これまでの4つの橋の約1年後、昭和2年から3年にかけて造られたもので、これまでとスタイルが異なり、鉄骨の手すりになっています。平成16年に東側の欄干が撤去されました。右は西側の欄干を南から北へ向かって写したものです。
(2004/3月撮影)
在りし日の東側の欄干。これは上の写真と反対に、北から南へ向かって撮りました。橋としての機能は失っても、いろいろと使い道はあるようで、選挙ポスターの掲示に利用されていました。鉄骨は80年近くも経過しているのに、さびて朽ちることもなく、しっかりしていましたが、いまはスクラップになってしまったのでしょうか。
(2003/3月撮影)
 

中野橋(なかのばし)

「中野」という地名はここらにはないので、次の宮前橋と上野橋(上野町につながる)の間にある橋という意味の「中野」ではないかと思います。ここも東側の上部構造が撤去され、この西側の欄干だけが残っています。北から南を見た写真です。
(2004/04)

 

宮前橋(みやまえばし)

ちょうど消防車の下あたりに橋の欄干があったはずですが、いまはご覧の通り、跡形もありません。突き当たりに写っているのが北方皇大神宮で、橋の名前もそれにちなんだものでしょう。千代崎川は、このあたりで南から北へ本牧通りを横断し、北方町方面へ流れていました。この写真は北から南を写したもの。(2004/4月撮影)
【注】「宮前橋」の読みは「みやさきばし」の可能性もあります(2011年1月加筆)。

 


千代崎川の終焉

千代崎川の終焉(2011年1月加筆)

■暗渠となっていた千代崎川の覆蓋が2010年(平成22年)秋から暮れにかけての下水道整備工事で撤去、平坦化され、同時に、立野橋から宮前橋にかけて残っていた橋の残骸もついにすべて姿を消しました。その工事灯が、はからずも千代崎川の終焉を彩るウィンター・イルミネーションとなりました。写真は2010年の大晦日に撮影したもの(クリックすると拡大できます)。


■右の写真は五月橋跡から東を見たところ。このあたりが夜このように華やいだ?のは、すぐ北側の本牧通りを横浜市電の花電車が走ったとき以来ではないでしょうか。それももう半世紀近くも前のことです。跡地はぜひ、活気ある街を復興するために役立ててほしいと切に願っています。

■千代崎川とこれらの震災復興橋に関する碑を西ノ橋付近に建てようという計画が進行中だそうです。上記大和橋の隠れた親柱の件も合わせて、この Web ページをご覧になった本牧在住の方から貴重な情報を頂きましたので付記しておきます。(2011年2月)

五月橋跡から



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