大神宮山


(2003/Mar)
大神宮山(だいじんぐうやま)の名前の元となった北方皇大神宮。慶応年間に山手の外国人居留地からこの地に移されたといわれています。ここから東(写真の左手)は昔の本牧村になります。

このあたりの鎮守として、夏祭りの宵宮では、この神社前に近隣の町内の御輿がずらっと並んだものでした。私の初詣も必ずここでしたが、もう半世紀も昔のことです。

玉垣の前を右に曲がると、狭い急坂が大神宮山の山頂へ続いています。社殿の後ろには巨大なブラフ積みの壁がそそり立っています。

明治32(1899)年の「内地雑居」実施直後から、このあたりには外国人が多く住み始めたようです。おそらく非常に眺望が良かったせいでしょう。ちょうど山手の丘と向き合う形で、眼下には田圃が広がり、右に目をやれば本牧の海が見えたはずです。現在でもカタカナ名前の住人が少なくありません。

(2003/Jan)

(2003/Nov)

(2003/Jan)

(2004/Dec)

(2004/Dec)

(2005/Feb)
私の単なる印象ですが、ブラフ積みの石垣は、外国人の住宅が建っていた跡に多く見られるようです。大神宮山下には、いくつかブラフ積みの石垣が残っていますが、大正初期の住宅地図を見ると、そのあたりの土地所有者はいずれも外国人です。

(2004/Dec)
関東大震災前、この坂を上りきったところに風車のある西洋館が建っていたという話が、昭和60年にまとめられた「中区史」に載っています。その話の主が昔お会いしたことのある人だったので以前から興味を持っていましたが、2004年に、意外なところから、その風車の往年の姿にたどりつきました。その経緯については稿を改めますが、その前に「中区史」の記事を一部引用しておきます。
「...急勾配を登りつめたところに風車があった。風車のある洋館は緑のペンキの二階屋で、格調高いものであった。シフーナと言うドイツ人の邸宅で、入口には桜の木もあったが、カシやシイの大木が屋敷を取り巻き、森のように見えた。屋敷の傍らには、みかんの木や、お花畑もあって、野菜も作っていた。...風車小屋の前は削り取られたような崖で、下は目が廻って見られなかった。上野町や麦田の町が川原のように、家並みが砂利のように小さく見えた。緑の深い丘陵の光に、白く富士山が浮き出て、実に爽快な展望であった。 ... 藤村久直『山手物語』
中区史によると、この風車小屋は「震災で倒壊、しばらく残骸をさらした後、いつとはなくかたづけられ、この横浜らしい風景は再現されることはなかった」といいます。

この風車の邸宅にまつわる話は、 大神宮山「ヴィラ・サクソニア」の風車跡 のページをご覧ください。
 



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