西戸部「鵯越」

大正12年(1923年)の関東大震災で多数の死者を出した西戸部の俗称「鵯越(ひよどりごえ)」を、古地図を頼りに探して訪ねてみました。一面びっしりと草むした崖を、白いガードフェンスの付いた石段がジグザグに登る人気の少ない狭い坂でした。
「横浜震災誌」によると、震後の猛火に追われた人々がこの坂上へ逃れようとしましたが、すでに上からも火の手が這い降りてきていたため、進退窮まって約60名が焼死、坂上でも約70名の焼死体が残されたといいます。

実は私の父親も、ここからほど近いところで生まれており、震災当時は7歳になろうかという歳でした。その当時の話は聞きそびれましたが、古い戸籍を調べてみたら、当時の祖父母には、9歳を筆頭に、下は生後7か月までの4人の男の子がいました。さぞかし大変な思いをして避難したのだろうと思います。

「鵯越」は、坂下の大通り(現在の戸部本町)から意外によく見えました。震災当時は家数も今より少なく、高い建物もなかったはずなので、かなり遠くからも目立つ坂だったと思われます。鵯越での死者の多くは、直近の住民ではなく、他の場所から避難してきた人たちだったそうです。火に追われながら、この坂を見つけ、ようやく活路を見出したと思ったのでしょうか。



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