small_logo

英国領事館の鎮魂(追加1)

burial_marker

Japan-Yokohama Sept.1923
Great Earth Quake
Bodies found & interred by men from Hawkins

<整理された墓標>

■これは英国領事館の鎮魂(1)と同じ英国領事館(現・横浜開港資料館)の敷地内から撮影された写真ですが、墓標や敷地内が整理されていることから、何日か後のものと思われます。2011年夏にイギリス人収集家から入手しました。写真の裏面は正半分に仕切り線がある絵葉書の体裁になっており、鉛筆で上記のように「ホーキンス号の兵士によって発見され、埋葬された遺体」と書かれています。ホーキンス号は英国がいちはやく救援活動に送り出した中国艦隊旗艦です。海外で多数流布した震災直後の横浜の写真は、この船の乗組員によって撮影されたものが少なくないようです。

<墓標に記された職員名>

markers

■O.M.プールの「古き横浜の壊滅」にも書かれているように、英国領事館とその近くで発見された被災者の遺体は、一時的にこの領事館敷地内に埋葬されました。手前から2つ目の墓標右上に、「鎮魂(1)」の写真にもあるヘイグ横浜副領事(William Haigh)の名前が見えます。この墓標に書かれている4人は東京の英国大使館または横浜の領事館の英国人職員です。一番手前の墓標にはM.MaruyamaT.Mitsuhashiという日本人名が記されています。この2人は英国領事館の日本人スタッフと思われます。

■M.Maruyamaは丸山昌言(まさのぶ)氏で明治43年の横浜人名録に「英国領事館員」として名前が載っています。長年、書記(ライター)として領事館に勤務していた人物です。この後、遺骨は出身地である栃木県・壬生へ移されました。英国領事館の鎮魂(2)に、仮埋葬に立ち会う遺族の姿が写っています。

もうひとりのT.Mitsuhashi氏については、詳しい情報がありません。当時の警察の資料によると、日本人スタッフの死者は丸山氏と「絹谷某」とされていますが、「某」という言い方からすると、震災直後は身元情報が混乱していて、T.Mitsuhashiが正しい名前だったのではないかと推測されます。後方の3つの墓標は、残念ながら文字を読み取れるほど鮮明には写っていません。

■ちなみに、残る3人の英国人スタッフは英国領事館内の銘板によると次のとおりです(墓標とわずかにスペルが異なります)。

  • Hugh Archibald Fisher Horn(英国大使館・商務官)
  • David Waddell(英国大使館・会計官)
  • James Percy Lyes(横浜総領事館・海運事務官)

<南西方向に向かって撮影>

■写真は現在の海岸通り側から本町通りに向かって撮影されたものです。正面の大きな建物は本町通りに建設途中だった中央電話局新庁舎(現在は横浜都市発展記念館)です。この建物については、本町通りの救援活動本町通りは瓦礫の山をご覧ください。その右側に、現存する旧三井物産ビルが顔を覗かせています。下にその部分を拡大してみました。ほかに、右端に当時の生糸検査所の屋根が見えます。また、中央に写っている残骸は郵便局と電話局です。(2011年12月記)

mitsui_building

三井物産ビル

------------------------------------------
丸山昌言氏については、2012 年春、このサイトをご覧になったご親族から情報を寄せていただきました。(2012年4月記、2015年3月加筆)
戻る| |目次へ

Copyright(c) 2011-2015 fryhsuzk. All rights and wrongs reserved.