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見過ごされていた居留地境界石

境界石シリーズ(2)

見尻坂の居留地境界石

■2011年秋に「現役の居留地境界石を確認」のページで紹介した居留地境界石を見つけた後、昭和60年当時の資料に残存数が5つと記されていた居留地境界石のうち、2つはずっと所在を確認できませんでした。もはや見つけるのは無理かとあきらめかけていた2013年9月、思いがけない場所に居留地境界石が存在するという情報が寄せられました。

■その場所は、元町の商店街から山手の外国人墓地へ登る見尻坂(別名・宮脇坂)。毎日多くの観光客や山手の学校に通う生徒で賑わうスポットです。ここには開港期から増徳院というお寺が存在していましたが、関東大震災で大きな被害を受け、移転を余儀なくされました。また、かつては整ったブラフ積みだったと思われる石積みにも震災による破壊の痕跡がうかがえ、とても境界石のような古い遺物は残っていないだろうと思っていました。

■さっそく現地で実物を確認した後、過去にこのあたりで撮影した写真を探してみると、片隅に《その境界石が写り込んでいる》写真が何枚か見つかりました。右はそのうちの1枚です。境界石がどこにあるか探してみてください。この種の石は、とても目に付きにくいのです。

※《 》で囲まれたテキストの部分にマウス・カーソルを置いてください。

見尻坂2007年

(2007 Jan)

■問題の部分を拡大してみます。2つの石柱が隣り合って存在し、アスファルトのようなもので接合されています。このうち左方の石柱では《「地界」という2文字が刻まれている》ことがなんとか判読できます。《6年後の2013年に現地で確認した際の写真(右下)と比べてみると、その6年の間に「地」の「つちへん」部分が剥落》してしまったこともわかります。

見尻坂居留地境界石2007

(2007 Jan)

見尻坂居留地境界石2013

(2013 Sept)

■これらの石を上から見たのが次の写真です。左側が坂下の方向で、手前が階段になっている道路(見尻坂)になります。 実はもうひとつの黒っぽい方の石柱にも道路を向いた面に《「道路境界標」という文字》が刻まれています。つまり、こちらは道路境界石です。2つの石は《文字面が90度異なる角度で立てられており、》大きさも少し異なります。

■大雑把な計測では「地界」石が8寸(刻字面)×6寸(奥行)、道路境界石がほぼ8寸角で、高さはどちらも1尺5寸ですが、かつて地中に埋められていたと思われる部分を差し引くと、前者が1尺、後者が1尺2寸程度になります(1寸=3cm、1尺=10寸)。

見尻坂2013年

明治初期の『横浜実測図』と照合

■道路境界石については別のページ(「古色を秘めた道路境界石」)で述べることにして、「地界」石の8寸×6寸×1尺という大きさは他の居留地境界石と同じです。また、「界」の文字で下部の縦棒が左右の払いを突き抜ける独特の書体であることも共通した特徴です。しかし、それだけで「地界」という文字しか読めない石を居留地境界石だとするのは少し乱暴な話かもしれません。別の証拠を探してみると、他のページでも紹介している明治14年の『横浜実測図』がここでも役に立ちます。

明治14年実測図から

《明治14年『横浜実測図』(横浜中央図書館所蔵)》より

■この地図から、《「地界」石のある場所》がちょうど元町の日本人居住区(図の左下側)と外国人居留地(図の右上側)の境目であることがわかります。また、この地図の凡例(図の左上)で「…地界」と称するものは「居留地界」と「番地界」の2つだけです。「番地界」は通常「敷地」境界石で示されますが、敷地境界石には、「山手に残る敷地境界石」のページで示すように「…番」または「…番地」と刻まれており、「番地」と刻まれたものは見つかっていません。

■さらに、この境界石は山手居留地97番地(現・アメリカ山公園)を背にして立ち、刻字面を元町側(つまり日本人の居住地)に向けています。坂下から登ってくる人々に、この先が外国人居留地であることを警告する居留地境界石と見て間違いないでしょう。

■このように本来の位置に現在も残っている居留地境界石は、「現役の居留地境界石を確認」のページで述べた西山手のものと、この境界石の2つだけであり、大変貴重な境界石と言えます。しかも、西山手のものは時代が少し下るようなので、もしかすると、居留地発足当初の慶応年間から元の位置にある居留地境界石は、これが唯一かもしれません。

進む剥落

■ところが残念なことに、その後この居留地境界石は私の知る限り3回にわたって文字面が剥落し、2016年3月現在、最後の「界」の文字を残すのみで、何の境界石か判らなくなってしまいました。見つけて以来、表面の剥離の状況が気になって、近くを歩くたびに様子を見ていましたが、以下の写真は、その「経過観察」記録です。

見尻坂居留地界石20130912

(1)《2013年9月》

見尻坂居留地界石20140126

(2)《2014年1月》
「也」の上部の剥落を発見

見尻坂居留地界石2014Dec

(3)《2014年12月》

見尻坂居留地界石20150118

(4)《2015年1月》
「也」の残りが完全に剥落

見尻坂居留地界石2015Jun

(5)《2015年6月》

見尻坂居留地界石2015jul

(6) 《2015年7月》
文字にかからない小さな剥落

(2)(4)に際しては、発見時に剥落片が現場に残っていたため、ごみとして捨て去られるのを危惧して回収し、しかるべき研究機関にお渡ししました。そこを通じて、横浜市へもこうした状況が伝えられています。

■現場は多数の人が行き交う場所でもあり、興味本位に毀損されても困るので、何らかの保護策が講じられるまでは本サイトでの公表も控えるべきと考えていました。しかし昨年夏に地元のケーブルテレビの番組で採り上げられたことや、剥落が進む一方であり、このままでは最後の文字もいつ失われるかわからない状態であるため、記録を残しておく意味から今回このページを作成しました。新年度を迎えて、遅まきながらでも行政から保護の手が差し伸べられることを期待しています。

見尻坂居留地界石2016mar

現況(2016 Mar)

5つ目の居留地境界石も意外なところに

■山手・外人墓地前のレストラン「山手十番館」前に展示されている居留地境界石の目と鼻の先、「山手ROCHE」というレストラン入り口の前庭に、別の居留地境界石が展示されています。特に説明板のようなものもなく、普段は花壇の草花に隠れるように立っています。気付く人もほとんどいないようです。私もこれを知ったのは2015年3月のことで、たまたま植物が刈り込まれていたときでした。長くROCHEさんのマネージャーをされている方の話では、レストランのある建物の建設当初(昭和46年)から置かれていたようで、この件で問い合わせを受けたのも初めてとのことでした。

■残念ながら、居留地時代にこの場所に居留地境界石が設置されたとは位置的に考えにくく、きれいに整備された花壇の中に置かれている状況からも、「山手十番館」前の展示と同様、別の場所で発掘されていたものを移設したと考えられます。しかし、刻まれた「居留地界」の文字も含め、まるでレプリカかと思うほど完全な形を保って地中に埋められており、かつての居留地境界石の姿がよく再現されています。

■大きさは、見た目ですが、他の居留地境界石と同じ横8寸×奥行6寸×高さ1尺(地上に現れた部分のみ)で、正面以外に文字は刻まれていません。

見尻坂居留地界石2016mar

(2015 May)

■これにより、私が所在を確認できた居留地境界石は全部で5つとなりました。これらが昭和60年当時の調査の際に数え上げられたものと同じであるかどうかはわかりませんが、数のうえでは同じになり、居留地境界石探しにはひとまず区切りが付きました。とはいえ、またどこか思いがけないところから見つかることをひそかに願ってもいます。
(2016年3月記)


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