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妙香寺トリビア

妙香寺正面

妙香寺(みょうこうじ)は私の生家のすぐ裏手にあり、小学校に入る前からの遊び場として慣れ親しんだ場所です。その後、私は住まいを他へ移したため、今世紀に入って「古壁」撮影のために再び近くを歩くようになるまでの様子は、よく知りません。しかし、私にとっては強い思い入れのある場所です。このページでは、半世紀前の妙香寺に関する私の記憶をまじえながら、古壁ウォッチングの目で改めてこの開港地随一の古刹を探索してみたいと思います。

国歌「君が代」と吹奏楽のゆかりの地としての妙香寺については、妙香寺の Web サイトに詳しく書かれています。なお、この「妙香寺トリビア」ページは妙香寺さんとはまったく無関係で、私が勝手な蘊蓄を語っているだけであることにご留意ください。


参道入口の石造建造物■参道入口のすぐ左側(西側)にあるこの石造建築物は、私の記憶にある 50 数年前からこの姿のままです。何のための建物かはっきりしませんが、小さい頃、そびえ立つように見えた基壇をよじ登り、上の段に立てたときの達成感を忘れられません。お寺の入り口にあるので、この上にさらに寺の名か題目を刻んだ碑が載っていたのかもしれません。

浄行堂■そのひとつ奥にある浄行堂。浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)を収めています。仏像の姿も昔から変わっていません。身体の具合が悪い人が、この仏様のその部分を束子で擦ってきれいにすると、良くなるとされています。いまも澄んだ水と沢山の束子が備えてあります。

君が代由緒地の石碑■参道入口右手にある「君が代由緒地」の石碑。昭和12(1937)年5月に建立されたもので、さすがに70余年を経て、いまは裏に鉄パイプの支えが設けられています。ただし、この写真に写っている銀色の棒は、隣家の物干しです。

井戸■碑のうしろに、懐かしい井戸が残っています。穴の開いた部分はポンプが取り付けられていた場所だったと思います。井戸の手前に四角い石が埋まっています。これについては、ちょっと考えていることがありますので、あとでまた述べます。


山門階段西側の石垣■山門階段西側の石垣。上の大谷石の部分がいつ頃出来たものか私の記憶にありません。下の部分は、一応ブラフ積みになっていますが、よく見ると途中から長手積みになっています。妙香寺の石垣は、古くは長手積みだったようで、山上の古い墓地の擁壁にも長手積みが見られます。幕末以後に積まれたブラフ積みが、以前の長手積み部分との調和を取るために、こうした変則的な積み方になったのでしょうか。 山門階段東側の石垣東側も同じような変則的なブラフ積みになっており、階段の上から見ると、途中から長手積みになっていることがよく判ります。また、途中に石垣の寄進に関する石の銘板が埋め込まれています。その銘文から考えると、この石垣は明治20〜30年代に築造または修築されたようです。変則ブラフ積みに古い部分と新しい部分があるので、銘板は修築時の記録のような気がします。なお、右手の道は山上へつながる女坂です。

■ここからは、私の父親が昭和29(1954)年に妙香寺で撮った写真も何枚かご紹介します。まずは、階段上のほぼ定点から参道を見下ろした写真をご覧いただきましょう。


山門階段上から(現在)■山門階段の中程に踊り場があります。そこから写真左の石垣をよじ登ると、子供が身を隠せるくらいの背丈の笹薮が広がっており、そこがあの頃の子供たちの「基地」でした。この写真は2002年に撮ったもので、その「基地」入口の少し下あたりに大きな桜の木が写っていますが、最近訪れた際、この老木が朽ちて崖の崩壊事故を招いたため、やむなく伐採されたことを知りました。その旨を知らせる丁寧な掲示板に、お寺の心遣いが感じられました。
■階段の右側は、現在では保育園と住宅が建っていますが、半世紀前の当時は、石垣の上が右の写真のような崖地になっていました。写っている少年2人は、恥ずかしながら私と兄です。「坊ちゃん刈り」の頭と下駄は、当時の標準的な子供のファッションでした。

階段上から(昭和29(1954)年)■この崖の斜面は乾燥したローム質の土に覆われていて、その中に多数の瓦の破片が転がっていました。そのため、子供心に昔は寺のお堂が建っていて、太平洋戦争時の空襲で焼け落ちたのだろうと思っていました。崖下に見えている建物は「大黒堂」です。当時はこれが妙香寺のシンボル的な建物で、町内会や商店街の会合にもよく使われていました。その向こうに前述の石造建造物と、寺の門前を東西に走る道が写っています。ずっと後になって知ったことですが、この道は幕末に居留地外国人のために幕府が造った遊歩道です。
■私は、この門前で時折催されていた縁日を記憶していますが、それも昭和30年代の始めには、開かれなくなってしまいました。関東大震災前、このあたりはすぐ近くにあったキリンビール工場の従業員などが多く住み、寄席や劇場もあって非常な賑わいだったそうです。あの縁日は、そうした震災前の名残だったのでしょうか。


鐘楼(現在)■山門階段を上って、すぐ右手(東側)にある鐘楼。半世紀前は石の基壇の上は戦災で焼けて丸坊主になっており、そこに梵鐘がお椀をふせたように置かれているだけでした。もちろん、撞かれることもなかったのですが、現在は朝夕に殷々たる鐘の音を響かせています。明治時代の教科書にも載ったという横浜八景のひとつ、「北方晩鐘」は、この鐘の音を詠んだものだそうです。

鐘楼付近から見た本牧方面(現在)■鐘楼からは本牧方面に向けての見晴らしが開けています。現在はこんな感じ。民家が立ち並んで、海はまったく視界の外です。左手の木が茂っている山が山手です。

鐘楼(昭和29年)■兄弟で相撲を取っている写真ですが、その背景に当時の鐘楼の一部が写っています。写真をクリックすると、石の基壇とその上にある梵鐘、およびお堂の支柱の礎石を見ることができます。この鐘は正徳五(1715)年に鋳造されたものだそうです。当時は、そんな由緒のある鐘とも知らず、ローセキでいたずら書きをしたり、よじ登ったりして、遊び道具の1つにしていました。

鐘楼付近から見た本牧方面(昭和29年)■この写真では、はっきりしませんが、遠方に水平線が写っています。赤毛の頭の真後ろが本牧十二天で、この頃は大きな平べったい円筒形をした進駐軍(今風に言えば駐留米軍)の水タンクが見えました。


山上の大ブラフ積み(現在)■山上には現在は立派なお堂が建っていますが、昔は戦災で焼失しており、広々とした子供の遊び場のようになっていました。私の記憶に強く残っているのは、この大きなブラフ積み擁壁です。現在はその前に保育園が設けられています。偶然でしょうが、左端の鉄棒のところには、昔も鉄棒が置かれていました。この古壁は今の子供たちの記憶にも、写し取られてゆくことでしょう。

崖上からの俯瞰(現在)■上の写真の崖上から境内を俯瞰した写真です。左の大屋根が本堂、その手前は、かつて山門階段下にあった大黒堂です。大黒堂は山上へ移転して小振りになりました。遠景の尖塔のある建物群は横浜雙葉学園です。私の母はこの尖塔を「とんがりやそ」と呼んでいました。「やそ」とは「耶蘇教」つまりキリスト教のことです。大正末の生まれでも、そんな大時代な言葉を使うのかと驚きました。

■この写真の右側、自動車が並んでいるあたりに、右の写真に示した雲梯やブランコが置かれていたと思います。滑り台はこの写真で大黒堂の右の屋根が指しているあたりでしょうか。

背景にブラフ積み(昭和29年)。クリックで拡大■山上の境内のほぼ中央に置かれていた滑り台です。クリックして拡大すると、後方に、左で述べたブラフ積みの大擁壁と鉄棒が写っています。当時この写真の右手には、高さが1メートルぐらいの本堂の基壇が残っていました。上に建物がないので、野外ステージのような感じで、当然ながら子供たちの格好の遊び場でした。その手前には大きな松の木があり、夏はその松ヤニを下の笹薮から「肥後守」ナイフで切り取ってきた笹竹に塗り付け、トリモチ代わりに使いました。妙香寺の墓地では、カブトムシやクワガタも捕れました。

背景に山手(昭和29年)■境内には、子供向けにいくつも遊具が置いてありました。これは二人乗りの対面式ブランコ。背景の山は山手です。山手にはまだ西洋館が多く、それを買い取った知人の家で、初めて私は西洋便器を見ました。


雲梯。背景は山手(昭和29年)■雲梯の上に乗っている私の兄です。これも背景に山手が写っています。この雲梯に上ると、本牧の海を大きな貨物船がゆったりと進んでゆくのがよく見えました。それにしても、これらの遊具は当時すでにずいぶん年季が入っていましたから、この写真の頃よりずっと以前から置かれていたに違いありません。お寺の建物も失われていたときに、こうした近所のいたずら小僧共のために遊び場を開放してくれていたお寺さんに、改めて感謝したいと思います。


大黒堂裏の題目塔1■現在の大黒堂の裏に、私の昔の記憶にまったく残っていない古い石塔がいくつか安置されています。いずれも「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ題目塔ですが、長年の風雨と数々の災害をくぐってきたらしく、かなり激しく損傷しています。右は下部にあるべき「..日蓮大菩薩」の菩から下が破損しているもの。私は参道入口右側にあった石造建築物の上に載っていたのは、これではないかと思っているのですが、根拠は台座らしいものがない点ぐらいしかありません。

大黒堂裏の題目塔2■上の題目碑の右隣にあるこの題目塔も損傷がひどく、横から見ると下の写真のように表面がえぐり取られています。大黒堂裏の題目塔3

■また、上にかぶせた屋根も原形を留めていません。しかし、大変興味深いことに、この題目塔は、この妙香寺境内でイギリス陸軍の伝習を受けている薩摩藩軍楽隊の写真に写っている石塔によく似ています。現在の境内には、他にそのような石塔は見当たらないので、もしかすると同じものかもしれません。それにしてもこの壊れの原因は、関東大震災でしょうか、それとも戦災でしょうか。

大黒堂裏の几号題目塔■左欄で述べた題目塔のさらに右側にある題目塔は、台座に「几号(きごう)水準点」が刻まれていることから、地理マニアに大変よく知られたモニュメントです。几号水準点は明治初期に内務省地理寮が全国の地図作成のために各地に設けた高低測量の基準点で(現在は機能していません)残存するものは少数です。明治14年の横浜実測図に妙香寺の几号水準点の存在が記されていますが、その位置はここではなく、参道入口の東側です。このページの冒頭に示した井戸のあたりです。あの、井戸の手前に置かれていた黒っぽい石が、かつてこの題目塔の土台ではなかったか、というのが私の推測です。精密な位置はともかく、この題目塔が寺の門前に据えられていたことは確かではないでしょうか。

■この題目塔に書かれている「蓮昌山」は13世紀から横浜開港あたりまでの山号(現在は「本牧山」)で、その下に名前が見える第十九世日幸上人は宝暦年間(1751〜1764年)の人だそうです。そうなると、この題目塔は250年ほど前のものということになります。大黒堂裏の題目塔2

■台座に刻まれた「不」字に似た記号が几号水準点。ちなみに、設置当初の位置に残存する非常に珍しい横浜・南区中村八幡宮の几号水準点の説明はここをクリック


女坂■少々長居をしてしまいました。帰りは女坂(車坂)から下ることにします。昔は乾いた土に砂利をまいただけの道で左の崖は一面の笹薮でした。

■しばらくは正統派のブラフ積み擁壁が続きますが、さらに下って山門階段あたりまで行くと、長手積みになります。石垣にも近世と近代が同居しているようです。 女坂のブラフ積み

裏階段■坂の途中に下の道へ直接下る古い石階段があります。長い歳月を経て傷みが激しく、数年前から通行が禁止されていますが、私の知る限り、このあたりでこれだけの長さと古さを持つ石の階段は、他に現存しません。

裏階段の下から■下の道から見上げたところ。この道も、やはりかつては居留地外国人のための遊歩道でした、左へ進むと最初に述べた門前の道に直交します。右手は山手・代官坂につながっています。(2010年7月記)


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