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震災被災者が眠る根岸外国人墓地


墓地正門 ■明治 35 年(1902 年)に根岸仲尾台の丘に開設された根岸外国人墓地には、O. M. プール著『古き横浜の壊滅』(有隣新書・金井圓訳、原題「The Death of Old Yokohama」)に登場する関東大震災の外国人被災者の墓碑が多数見られます。

 

東側ブラフ積み擁壁■この墓地は、明治 13 年、疫病による死者を別途埋葬する目的で山手外国人墓地から南に約 1.5km 離れたこの地に土地が確保されたものです。しかし、管理の主体をどこにするかということや、その後、山手の墓地の衛生上の問題が解決されたこと、多くの外国人居留者の生活の場から遠いことなどから、十年以上も放置されていました。

■また、プールの著書には、震災直後に写したこの墓地の写真が載っていますが、開設から 20 年を経たその時点でもあたり一面に雑草が生い茂った原野のような状態です。本格的に利用されたのは、大正 12 年(1923 年)の関東大震災で山手外国人墓地が被害を受け、急遽代替地として着目されたとき以降ではないかと思われます。

西側ブラフ積み擁壁■墓地内には開設時のものと思われる古いブラフ積み擁壁が主に入口近くに残っています。

■擁壁の下部には、一見「ブラフ溝」のような排水溝が見えますが、これは水受けの面が丸く削られておらず、単に石をV字形に合わせただけのものです。

墓地下のブラフ積み1 ■墓地の外周に沿った道で墓地と同じ頃に造られたようなブラフ積みの擁壁を見つけました。
墓地下のブラフ積み2 ■同じブラフ積みでもそれぞれの場所で個性を感じます。このブラフ積みは端然とした古武士のような風格をそなえています。

(写真は 2003年3月撮影)


墓地内の階段

■墓地は3層に分かれており、震災被災者の墓は主に石段を登りつめた最上層に設けられています。

■山手の外国人墓地と異なり、墓碑はまばらです。また、訪れる親類縁者も絶えてしまったのか、墓石には長年の風雨で跳ね飛んだ土がこびりついています。しかし、墓碑銘に目を凝らすと、O.M. プールの著書でなじみのある名前が次々に見つかります。

最上層の墓地

パディーの墓碑

■震災時、山下町 5 番地にあった在留外国人のための社交機関兼ホテル、横浜ユナイテッド・クラブでは、煉瓦造 4 階(地下室を含む)の建物が地震で一気に崩壊したため、従業員と利用者の計 45 名が圧死する大惨事となりました。これはその被災者の 1 人であるアイルランド人、リチャード・アックランド(Richard Ackland)の墓碑です。一番下の行は「ERECTED BY HIS FRIENDS」と刻んであるようです。おそらく彼は単身者で、彼を「パディー」と呼び親しんでいた知人たちによってここに葬られたのでしょう。

ジョックの墓碑

■こちらも、やはりユナイテッド・クラブで亡くなったルイス・ワトソン(Louis Watson)、通称「ジョック」の墓碑。彼はプールの旧友のひとりで、隣人でもあり、かつては北方町・大神宮山の R.シフナー邸(ヴィラ・サクソニアの目と鼻の先に暮らしていたことがあります。

米領事夫妻の墓碑

アメリカ総領事代理マックス・デイビッド・キルジャソフMax David Kirjassoff、享年 35 歳)と妻アリス・バレンタイン・キルジャソフAlice Ballantine Kirjassoff、享年 34 歳)の墓碑です。

■2 人とも日本大通りの現横浜情報文化センターの位置にあったアメリカ領事館で被災。倒壊した建物の中から脱出したマックスは知人の手伝いを得て妻のアリスを瓦礫から掘り出し、救出しました。しかしその間に迫ってきた火災から妻を助けながら避難しようと海岸の方へ向かう途中、神奈川県庁舎のあたりで火煙にまかれ、婦人とともに死亡しました。知人は逆の横浜公園方向へ逃れて生き残ったといいます。

■マックス・キルジャソフは時計職人の父親を持つロシア系アメリカ人で、自身もロシアで生まれ、名門イェール大学を卒業後、外交官の道へ進みました。東京の大使館に通訳生として赴任して以来、主に台湾と日本でキャリアを積み、震災の前年に横浜駐在の領事として着任しました。一方のアリス夫人は祖父が宣教師として渡ったインドの地で生まれ、1914 年にマックスとインドで結婚しました。詳しい経歴やマックスと知り合ったきっかけはわかりませんが、結婚後、マックスと一緒に過ごした台湾について『National Geographic Magazine』誌に論文を寄稿するなど、深い教養を身につけた女性だったようです。

■震災のとき、2 人の間には 7 歳の長男 ともうひとり子供がおり、子供たちは無事でしたが、その後どのような人生を送ったのか、この無縁化したような墓を見ると気になります。通常、こうした官途にあったアメリカ人のお墓は米国政府によって保守されている場合が多いのですが、ここはその気配もありません。あるいはアメリカ側に所在が伝わっていないのかもしれません。Web 上に開設されている関連のデータベースに情報を送っておきました

マデリンの墓碑

■貿易商社員モリス・メンデルソンの妻、マデリン・メンデルソンMadeline Mendelson、享年 27 歳)の墓碑。

■O.M. プールが伝え聞いた話によると、彼女は山下町 60 番地のブレット薬局で買い物中に地震に遭い、お抱え運転手と共に車に乗り込もうとしたときに崩れてきた建物の下敷きとなり、火災により焼死しました。彼女は前年のクリスマスに、プールの「終生の友」であるモリス・メンデルソン(Morris Mendelson)と結婚したばかりでした。

■地震当時、モリスは山下町の勤務先(ベリック・ブラザーズ社)で被災し、自らも腕に大怪我を負いながらかろうじて死地を脱しましたが、呆然自失のていで、新婚 1 年も満たなかった若妻の安否を尋ねて回る痛々しい様子がプールの手記に描写されています

■モリスは震災後、ベリック商会の取締役を務めます。また、震災で山手 103 番地の自宅は焼失し、山元町 5 丁目に住まいを移しています。新しい住まいはマデリンの眠るこの根岸墓地にも近く、モリスはこの立派な墓碑を建てたあとも足繁くここに通ったに違いありません。しかし、90 年近い歳月を経て訪れる人も絶えた?様子から、はたしてその後一生独身を通し、子を成さなかったのだろうか……などとも想像してしまいます。

(2011 年 2 月記、写真は2003、2005、2006年撮影)


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