忘れっぽいぽいぽい……

   2000 年 1 月

 図書館で借りた本の返却日を危うく忘れるところだった。最近物忘れが激しい。返却日と借りた冊数をメモしておいて正解だった。

 本を揃えて鞄に入れ、帰りのバス代の小銭を確認して家を出る。団地の西側の坂を下って二十五分歩くと図書館だ。血の巡りを良くするべく、往きは歩くことにしている。

 坂の途中、一軒の家から婆さんがバケツを持って出て来て、こちらを胡乱気に見る。まわりは住宅地で、普段人通りが少ないのだ。

 婆さんの家を過ぎると、右側に雑木林を戴く小高い山が見えてくる――かと思ったら、いつのまにかすっかり伐採され、白茶けたハゲ山だ。新しいマンションでも建てる魂胆だろうが、あれでは、大雨でも降ればたちまち洪水だ。それを山のたたりと言う……

 あ、と思い当たり、慌てて鞄から財布を取り出す。図書館の貸出しカードを入れてきたか不安になったのだ。案の定、入っていない。今日は借りる本があるから貸出しカードは必要だ。溜息をつき、家に引き返す。

 途中、あの家の婆さんはバケツを外に置いて、家の中に引っ込んでいた。あとでまた出くわしたら、どういう顔をしたものか、などと考えながら、下ってきた坂を再び登る。

 貸出しカードは、たしかに仕事机の左上の引出しに入っていた。それを財布のカード・ポケットに入れ、あらためて家を出る。

 先程の坂を下っていくと、あの家のドアから婆さんが顔を出した。とっさに「それを既視感と言うのですな」とあいさつし、呆然と見送る婆さんを尻目に坂を下る。右側に見えてきた山は、いつの間にかハゲ山になっている。あれでは、大雨でも降ったらたちまち洪水だ。それを山のたたりと言う……

 突然、さっき取りに帰った貸出しカードが気になって財布を探る。案の定、入っていない! 今日は借りる本があるから、貸出しカードは必要だ。溜息をつき、家に引き返すと、あの家の婆さんは中に引っ込んでいて……


風と煙草とケータイと女

    2001 年 7 月

 風の強い日の夕方、散歩に出た。大きな団地の脇から下の道に降りる四、五十段ほどの階段に出ると、女子高生と思しき茶髪が下から登ってくるのに出くわした。

 この階段は両側が竹林になっていて、普段あまり人が通らない。茶髪は、肩に鞄を掛け、白のブラウスに灰色のミニスカート、ルーズソックスという定番スタイルで、右手には、これまたお決まりのケータイを捧げ持ち、その画面に見入っていたが、突然の中年オヤジの出現に、あわてて左手を背中の後ろに隠した。どうやら、人気のないのを幸い、煙草を吸っていたらしい。

 と、そこへモーレツな風が下から吹き上げて来たからたまらない。まくれあがる超ミニをどう押さえたものか。右手はケータイでふさがり、後ろに回した左手には火の点いた煙草……。彼女は階段半ばで立ち往生し、右肘、左腕、はては両腿をよじって必死にスカートを押さえ、珍妙なるタコ踊りを見せてくれたのであった。

 家に帰って、妻にその話をすると、「まだ、隠すだけいいじゃない」と言う。ミニスカートの話ではない。煙草のことだ。たしかに、近頃は高校生(中学生?)が大人の目など憚らず、堂々と煙草を吸っている。さすがに、そこまでする女の子はあまり見かけないが、隠れて一服やっている連中は、結構多いに違いない。何のことはない、女子高生のレベルが、我々の学生時代の男のレベルと同じということだ。大人の真似をして煙草を吸ってみたいという気持ちは、今も昔も同じだ。自慢じゃないが、私も煙草を十八才から始めていた。尤も、大学生になってからだけどね。

 だから、もう「煙草は大人になってから」などと言うのはやめて、学校で喫煙体験の時間を設けたらいいんじゃないかと思う。煙草の害を説明したうえで、吸ってみたい奴には吸わせてやる。それが原因で喫煙習慣が付く学生が出ても、それは本人の責任でいい。


TH(ティー・エイチ)人類

   2001 年 1 月

「あ、こいつもTH人類だ」

 と、テレビを見ていた我が家の新人類(♀)が声を上げた。TH人類とは、サシスセソ、とくにスを英語のth(発音記号はθ)のように発音する若者のことらしい。たしかに、ドラマに登場しているチョイ役の一人がそのように発音していた。

 私自身も、少し前に、どこかの放送記者がやはり「TH人類」であるのを発見したことがある。昔もそういう人を見かけることはあったが、最近特に目立つような感じもする。ひとしきり、正月の我が家をTH人類論が飛び交った。

「舌が長いのよ」と、我が家の旧人類(♀)が言う。スがθになるので、手術で舌を短くした女性がいるというのだ。うさんくさい話だ。口の中で舌をもて余すような奴がいるとは信じられない。

「いや、これは調音ができていないのだ。要するに言語体験も足りないし、親が子供の変な言葉を直そうとさえしないのだ」

 とは、旧人類の♂の代表を自認する私の言。

 その根拠は――娘が赤ん坊の頃、一番最後に発音できるようになった音が「ス」だった。一般的に、スの音は調音が難しいようで、幼児語を真似るときも「いいこでちゅね」などと言ったりする。TH人類が増えているとしても、若者が英語に堪能になった気配はないし、つまりは、単なる言語能力の不足なのではないか――。

 折りも折り、未来の日本語でニュースを読むとどうなるか、という新年のニュース番組があった。それによると、タチツテトもタティトゥテトとなり、言葉全体は抑揚のない平板なものになるそうだ。その理由は、その方が楽だからなのだとか。なんのことはない、未来の日本は未成熟の怠け者ばかりになるらしい。

 各地の成人式で起きた若者の乱行を聞くと、それも納得できる気がθる。


算盤塾のこと

        1999 年 9 月

 四十年も昔のこと、当時住んでいた町内に算盤塾があり、そこに通ったことがある。

 塾の先生は小学校の教師経験を持つ女の人で、物静かな優しい先生だった。

 週に一、二度だったと思うが、うなぎの寝床のような細長い教室で一時間、算盤玉を弾き、月の最後に進級試験があった。

 その試験で、私は常に十点を取った。十点満点ではなく、百点満点の十点である。一問十点の十問中、丸は一つだけ。自慢ではないが、十点以外は取ったことがなかった。

 母は、商人の息子は算盤ぐらいできなければだめだと考えており、あわよくば私を計理士に仕立て上げようと目論んでいた。だが、後年の母の話によると、私は「算盤など必要ない時代がくる」とうそぶいていたという。その話は、自分自身ではよく覚えていないが、算盤を前にした私は、四に三を加えると七だから、五の玉をおろして、下の玉を二つ下げて……などと、いつも頭の中で考えていた。これでは算盤が上手くなるはずがない。

 ある日、母が業を煮やして私に十点の答案用紙を突き付け、復習を命じた。そして、試しに、たった一つの丸をもらった問題を検算してみると、まったく違う答が出た。何度繰り返しても、その答が出るので、母が代わりに算盤を入れた。答は同じ、つまり、私の誤答に丸が付いていて、十点は、実は零点だったのだ。温情か教育的配慮か、あるいは同じ町内のよしみか、塾の先生が、零点の私にいつも一つだけ丸をくれていたことが、そのときにわかった。ダメな生徒でもちゃんと気にかけてくれていることがうれしかった。母も苦笑いしていた。

 私の算盤塾通いは、親が諦めてくれたので、、その後まもなく終わった。算盤塾自体も、時代の波か、何年か後に学習塾に衣替えし、今は跡形もない。ふと「いま全盛を極めている大手の学習塾であのような採点をしたら、親が怒鳴り込むのかな」などと考える。


夢かうつつかの話

    1999 年 6 月

 就職した翌年の夏、高校時代の友人に連れられ、佐渡に一週間ほど滞在した。当時結婚したばかりの彼の奥さんが佐渡出身だった。

 最後の三日間、彼と私の二人だけで島を車で一周した。二晩目の民宿は海に近く、裏手がすぐ砂浜に続いている古ぼけた家だった。だが、海山の新鮮な幸を堪能でき、我々はビールの酔いもあって、早々に寝ついた。

 目を覚ましたのは深夜である。曇りガラスの入った窓を通して、外のかすかな光が感じられた。開けてみると、遠くで裸電球を吊るして大勢で何かをしている。ときおり、どっと笑い声も上がる。

 友人も起きてきて、私たちは窓から外へ出て裸足でそちらへ向かった。

 それは相撲大会のようだった。砂浜に土俵を見立てた土盛りをし、白いまわしを着けた三、四十名の若者が順に対戦している。私たちは少し離れたところで観戦することにした。

 だが、そのうち、不思議なことに気が付いた。そこにいるのは、二十才前後で、みな坊主頭の似たような若者だけなのだ。町内の相撲大会にしては、観衆も女っ気も皆無で賞品らしいものも見当たらず、ただただ男たちが順に土俵に上がり、相撲を取るばかり。野次や声援が上がって結構楽し気なのに、どことなく寄り付きがたい雰囲気がある。ときおり風で裸電球が揺れ、男たちの影もゆらゆらと揺れた。そんな光景を見ているうちに、少し気味悪くなって、我々は宿に戻った。

 翌朝、宿を出るときに女主人に尋ねたが、そんな相撲大会は知らないということだった。

 友人の奥さん宅に帰ってから、この話をすると、友人の義父が、 「そういえば、あの海岸で戦争末期に南方へ送られる兵隊さんが相撲大会をやったことがある」と教えてくれた。

 その兵隊たちの乗った貨物船は、戦地に着く前に潜水艦に撃沈され、生存者はいなかったそうだ。


ゴマフアザラシ君のこと

    1995 年

「今日はどうするの?」

 私の隣で温水シャワーを浴びていた「ゴマフアザラシ」氏が、その隣でやはりシャワーを浴びている彼女に声をかけた。
「え? ええ。バスで帰るけど...」

 彼女はにこやかに答えたが、その笑顔の裏に困惑があるのは明らかだ。それを知ってか知らずか、彼は、
「じゃあ、寄って行ってあげるよ」

 と、うれしそうに言いながら、たっぷり肉のついた体に湯を当てている。

 私は、なんとなくその場に居づらくて、そそくさと更衣室へ向かった。

 「ゴマフアザラシ」氏は私が通っている水泳教室の仲間で、歳は五十前後。百キロ近くありそうな体にホクロだかシミだかが点々と浮いているところから、私はひそかに「ゴマフアザラシ」と呼んでいる。

 その彼が、いつの頃からか、同じ班で一緒に泳いでいる彼女を帰りに車で送り始めた。彼女は四十歳を超えたくらいの、目がクリクリした中年美女である。むろん、子供もいる人妻だが、アザラシ氏が不倫をもくろんでいるのかどうかはわからない。

 そのうちに、彼女は誘いを断りはじめた。早々に着替えをして外の駐車場で待っている彼に「ほかの人と寄るところがあるから」と愛想よく言っている姿を何度か見かけるようになった。夜の八時半という時間だ。車で送ってもらえるのを断る理由はあまりない。

 こういう状況になったら、私ならもう声をかける勇気はないが、アザラシ氏は鈍いのか図太いのか、それともまったく無邪気なのか、ひるむことなく声をかけ続けている。

 着替えを終えて出口へ向かったところで、二人一緒にドアを出て行く姿を見た。どうやら今日はうまく行ったらしい。だが、いつものように隣の本屋へ寄ってから外へ出ると、とっくに家路に着いたはずのゴマフ氏が道路端で一人ぽつんと誰かを待ち続けていた。


秀吉

    1996 年 1 月

 今年のNHK大河ドラマの主人公は、ご案内のとおり「秀吉」である。舞台となる戦国末期は数多くの事件やエピソードに富み、ドラマにはもってこいだ。だが、そうしたドラマを観ていて思うのは、登場人物相互の年齢関係がいまひとつはっきりしないことだ。

 そこで、それぞれの人物の実際の年齢を、思い付くままに日本史辞典で調べてみた。まずは次の四人。「本能寺の変」が起きた一五八二年(天正十年)当時の満年齢である。

羽柴秀吉   四六歳
池田恒興   四六歳
柴田勝家   六〇歳
丹羽長秀   四七歳

 なぜ、この四人かというと....この四人は、明智光秀を討った後に信長亡き後の政治方針を論議した清洲(きよす)会議の全メンバーと言われている。この席では、織田家の旧臣である勝家と、光秀討伐の殊勲者秀吉の主導権争いが演じられた。恒興は秀吉と、長秀は勝家とそれぞれ良い関係にあったが、最終的に長秀が秀吉の意見を認めたため、勝家は天下取りの夢を断たれた。年齢だけを見ても、勝家は一人だけ別の世代に属しており、そのような会議の成り行きが納得できる。

 また、同じ年のその他の武将たちの年齢は次のようになる。

織田信長   四八歳
徳川家康   四〇歳
前田利家   四四歳
明智光秀   五四歳

 利家が秀吉より歳下とは知らなかったが、ここでも面白いことに、光秀がやはり一人だけ年齢的に離れている。この時代の大事件の背景には、どうも世代の差が潜んでいそうだ。ご参考まで。


高層ビル・ラッシュ

    2003 年 1 月

 東京は高層ビルの建築ラッシュだそうだ。いまや新宿や霞ヶ関といったおなじみのビル街だけでなく、売り出し中のお台場、汐留をはじめ、南千住、錦糸町、亀戸、東五反田等々、至る所に三十階を超える超高層のマンションやオフィスが造られているという。

 ちなみに、消防の観点では「高層ビル」とは地上三十一メートル以上、「超高層ビル」は六十メートル以上のビルなのだそうだ。つまり八階建てくらいから「高層ビル」になり、大体十五階を超えたら「超高層ビル」になる計算だ。「高層ビル」は消防自動車のはしごの届く限界であり、「超高層ビル」は建物の安全を保つ上で、また違う基準が必要になるらしい。いま建てられているのは、そんな高さでは収まらない「超々高層ビル」ということになる。

 私が子供の頃は、そんな高いビルは地震の多い日本では建てられないと聞かされていた。昭和四十三年に一気に地上三十六階という霞ヶ関ビルが出現したときは、ずいぶん驚いたものだ。その後、東京都内にぽつりぽつりと超高層ビルが建ち始めたが、ここ数年のような増え方ではなかったように思う。最近何か技術上の大きな革新があったのかもしれないが、私としては、あのような高いビルで生活する気にはなれない。超高層のマンションなどが「よく売れている」という話を聞くと、単なる業者の宣伝でないかといぶかるほど、高層ビルに対しての「不信感」がある。

 ビルを建てる側は、安全に関して十分な自信があるから建てているのだとは思うが、防災は、そのビルだけが安全であれば成り立つものでもないだろう。近隣の「足元」が悪ければ、たとえビルが完璧に地震や火災に耐えても、中にいる人間は全滅していることだってあるはずだ。

 今年は関東大震災からちょうど八十周年である。忘れた頃にやってこなければいいが。


妙香寺のこと

    2002 年 5 月

 横浜・山手の南、つまり港とは反対側の丘に妙香寺という寺がある。正しくは「本牧山妙香寺」で、日蓮宗のお寺である。

 ここには、二つの石碑が建っている。曰く「国歌君ヶ代発祥之地」と「国歌君が代由緒地」だ。なんでも、明治二年に、ここで薩摩の兵隊による日本初の軍楽隊が結成されたのだそうだ。その指導にあたったのが、イギリス軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントン――「君が代」の原曲の作曲者である。

 そういう曰く因縁のある寺とも知らず、私は物心ついてから小学校の低学年まで、その境内を遊び場にしていた。そこから歩いて二、三分のところに、私の生家があった。近所の仲間と遊ぶのは、妙香寺と決まっていた。

 このあたりは、太平洋戦争末期の昭和二十年五月二十九日に米軍の空襲を受けて焼け野原になった。私が子供の頃、つまり昭和三十年前後の妙香寺は、本堂も石の基壇だけを残して焼け落ちており、屋根を失った鐘撞き堂の石壇に鐘が野晒で置かれていた。

 境内は三十段ほど石の階段を登った上にあり、当時は一番奥の庫裏以外めぼしい建物もなく、そこら中に雑草が茂っていた。その中に腐食しかかった鉄の雲梯と、滑り台と鉄棒があって、我々の格好の遊び場になっていた。

 その妙香寺を久しぶりに訪れた。大人になってからも何度か前を通ったことはあったが、石段を登るのは少なくとも四十年ぶりだ。階段の上には、いつの間にか山門が造られており、そこを通リ抜けると、まるで見知らぬ世界が広がっていた。大きな屋根の本堂や鐘楼が立派に再建されており、折しも春の彼岸だったため、参拝客の車が境内を埋めていた。むろん、かつての遊具は取り払われ、昔を思わせるものは古い石組みぐらいだ。

 ふと思い立って、鐘撞き堂の脇、あの雲梯のあったあたりに歩を進め、遠い景色を眺めると、本牧の山の間に見えたはずの海は、高いマンションの蔭に埋没していた。


あの木、何の木

     2002 年 4 月

 生まれて以来ずっと街中に暮らし、庭付きの家にも住んだことがないせいか、恥ずかしながら樹木の名前と言えば松と竹と柳ぐらいしか知らない。桜と梅の区別を知ったのは不惑を過ぎてからだったような気がするし、それも、花が落ちてしまったら、いまだにとんと見分けがつかない。

 それが、数年前から家の近くの公園にある一本の木が気になっていた。春先に白い花びらを付け、それが散ると一気に青々とした葉が出てくる。枝振りがいいので、夏場は全体がこんもりと擬宝珠のような美しい姿になる。やがて秋になると、葉が一枚残らず散って、丸坊主になった枝々が、つんと天を指す。一年中、表情の豊かな木なのだ。

 で、とうとう先日、何という名前の木なのか調べてみようと思い立ち、図書館から図鑑を借り出した。植物図鑑をしげしげと眺めたのは小学校以来だが、最近のものは鮮明な写真や葉の形のシルエットなど、なかなか親切な作りで、解説も分かりやすい。数日間、時間を見てはページを開いて楽しんだ。

 おかげで、ようやくケヤキやユズリハが分かるようになった。また、この木は何という木なのかという興味を持って街を歩くと、今まで面白くも何ともなかった街路樹にも、いろいろな種類があることがわかる。それだけでなく、同じ種類の木であっても、一本一本に個性があることに気付かされる。

 どこの会社だったか、接客の訓練で単に「お客さま」と呼びかけるのでなく、「杉山さま」「森さま」と客の名前を呼ばせるという話を聞いたことがある。たしかに、樹木ひとつとっても、単に「木」という感覚で見るのと、あれはコナラ、これはカシという感覚で見るのとでは、見え方に大きな違いがある。名前を覚えるということは、実は対象を深く知るために大事なことなのかもしれない。

 さて、問題の木は、私が演歌の歌詞の中でしか知らなかった「コブシ」だった。


一杯のお粥から

   2002 年 1 月

 去年暮に風邪を引いて、三十八度を超える熱が出た。当然ながら食欲も出ないが、薬を飲む都合上、腹に何かを入れなければならない。そこで、家内に粥を作ってもらった。

 真っ白い粥の中に落とした半熟状態の卵と真っ赤な梅干し。赤、白、黄色と、まるでチューリップのような配色がそうさせるのか、湯気の立つ粥を見ていると、ふつふつと食欲が沸いてきた。それをれんげで掬い、息でさましながら口に運ぶと、これが実にうまい。あるかなしかの塩気が舌に快く、甘みさえ感じさせる。そこへ卵の黄身を崩して流し込み、梅干しの果肉をれんげの先でちょんちょんとつつき出して、またひとくち。口の中にさっと梅干しの酸味が広がって至福の世界が展開する。もう最高である。日本人に生まれてよかった。いままでに食べたどんな料理よりもすばらしい。「こんな単純素朴な食べ物に、かくも幸せを感じるとは」と、飽食の時代に新しい発見をした思いがした。

 戦国時代の社会について述べた『雑兵たちの戦場』(藤木久志著・朝日新聞社)によると、ある研究者は、寺の過去帳から十四〜十六世紀の人の死に明確な季節性があることを突き止めたという。その頃は、平年作の年にも凶作の後にも「早春から初夏にかけて死亡者が集中し、初秋から冬にかけて(死者の数が)低落する」のだそうだ。

 なぜか。

 それは、早春から初夏というのは農作物の端境期になり、春になると必ず飢えがくる時代だったからだ。こうした飢えは、口減らしのための戦争へつながる。戦場の雑兵たちは、指揮する武士のように領地を求めるのではなく、敵地の民家に押し入って食糧や衣料から鍋釜に至るまで、あらいざらい略奪し、見境なく人を捕らえて売り払うために戦をした。

 これも、昔の人は春を心待ちにしていたとばかり思っていた私には、飽食の時代における新しい発見だった。


団子坂

    2001 年 10 月

 漱石の「三四郎」に出てくる団子坂に行ってきた。三四郎と美禰子、広田先生、野々宮など、与次郎を除く「三四郎」のほぼオールキャストが打ち揃って菊人形を見物に行った場所である。ここで、三四郎は彼らが非人情の都会人種であることを思い知らされる。また、思いがけず美禰子と二人きりになる機会を得、有名な「ストレイシープ」の一言が美禰子の口からこぼれるのを聞く。物語の重要な背景である。描写されている周囲の風景は、都心をほんのわずかに離れた場所に広がるゆったりした田園風景だ。ちなみに、「三四郎」が発表されたのは明治四十一年(一九〇八年)、ほぼ百年前である。

 団子坂の名前の由来は、坂に団子を売る茶店があったからと言われる。また、急坂で雨や雪の日に人が滑って転がり、泥団子のようになったからとか、悪路で、歩くと足に泥団子が付いたからだという説もある。そういえば、「ストレイシープ」は、ぬかるみに足を取られまいとして、よろけた美禰子が三四郎の両腕の上に落ちたときに発した言葉である。漱石が団子坂の由来を意識してこのシーンを書いたのかどうかは知らないが……。

 そうした百年前の風情の片鱗にでも触れられるかと出掛けたわけだが、現実はそう甘くはない。団子屋は勿論、菊人形も遥か昔に廃れている。日露戦争、関東大震災、太平洋戦争といった歴史を経て、いまや「悪路の急坂」はアスファルトで均され、土や泥が顔を覗かせる余地もない。団子坂自体が都心の真っ只中に取り込まれ、行き交う車の量も尋常ではない。もはや団子坂が団子坂たり得る理由は、「団子坂」という名前以外にはない。 ところが、このように変貌した風景を目にしながら、「団子坂」と書かれたほうろう引きの交通標識を見ただけで懐かしさを感じるのは不思議なことだ。これが文豪の力量というものかと思うと同時に、「団子坂」の名前がよくぞ残ってくれたとも思うのである。


寿命

    2000 年 12 月

「人生五十年」とは昔のことだと思っていたが、案外そうでもなさそうだ。五十の声を聞いたら、身のまわりの友人がガンでばたばたと倒れ始めた。

 おととし、ちょうど五十歳で死んだ同級生は胃ガン、去年リンパ腫で逝った友人は四十九歳、そして、この秋に五十二歳で亡くなった親友は縦隔腫瘍だった。ひたひたとガンが身辺に近付いてくる感じだ。実のところ、私自身、胃に「異型」のものがあるというので、現在検査待ちである。われら団塊の世代は、ガンの標的にでもされているのだろうか。

 それ以外でも、歯や目や足腰の衰えを思うとき、平均寿命は七十だの八十だの言っても、やはり人間の身体は五十年でリース期間が満了となる事務機器のようなものかと考える。

 とりあえず、五十年程度は持つけれど、それが過ぎれば、いつ壊れてもおかしくない。また、「あたり」と「はずれ」の「機械」があって、「あたり」なら五十年どころか百年か、それ以上も持つ。しかし、「はずれ」なら、リース期間中から不良部品の交換などが必要となるし、場合によっては、リース満了を待たずに、文字通りお釈迦になる。つまるところ、本来、耐用年数五十年の機械だから、それを過ぎたら、だましだまし寿命まで上手に使い切るしかないということか。

 ところで、学説によると、寿命は性的成熟度と関係があり、哺乳類は性的に成熟するまでの期間の約五倍は生存可能なのだそうだ。となると、早く色気づいた者はオクテの者より寿命が短いことになる。一方、ルーブナーという学者によれば、動物の一生の代謝量は一定であり、熱を発生する代謝が少ない動物ほど寿命が長いらしい。

 これを要約すれば、人間はオクテで色事に熱を上げないのが長生きの秘訣となるわけだ。長命を保って、なお、あちらの方も盛んという老人が話題になるのも、やはり珍しいからだろうか。


宣誓、宣誓、それは宣誓

    2000 年 8 月

 今年の甲子園、兵庫・I高校主将の宣誓の言――
「日本中に夢、希望、感動を与え、二十一世紀の架け橋となる大会にすることを誓います」

 抽選で宣誓を引きそこねた鳥取・Y商業主将が考えていた幻の宣誓――
「良き野球人、社会人として、これからの二十一世紀を担っていく人材へと成長していくことを誓います」

 何かおかしくはないか? 「日本中に夢、希望、感動を与え、二十一世紀の架け橋となる大会」にしても、「良き野球人、社会人として、これからの二十一世紀を担っていく人材へと成長していく」にしても、どこかの報道機関が言っているような第三者的な響きがある。それも陳腐な常套句だ。一回負ければそれで終わりという試合に臨もうという選手の本音とは、とても思えない。

 選手宣誓自体がセレモニーなのだから、別に本音でなくてもいいのかもしれない。しかし、それならそれで「正々堂々と……」云々の決まり文句を使えばいい。それでは目立たないから嫌なのだろうが、代わりに持ってくるのが、わかったふうなマスコミの常套句ではいただけない。むしろ、「田中ーっ、見てるかぁー」とテレビカメラに向かってVサインでも突き出した方が、いかにも勉強二の次の高校球児らしくて好感が持てる。

 ところで、甲子園の「名門校」は生徒の大半が野球部員というのも珍しくないそうだ。県外からの「野球留学」も盛んである。終盤の甲子園は、都道府県というより野球専門学校の対抗戦の感がある。今年は、すっかり甲子園の「顔」になったQ学園に対して、プロに習い、ID野球を展開した高校も現れた。これもアマチュア・スポーツのプロ化の一面だろうか。選手宣誓で最も肝心なフェア・プレイの精神が、だんだん霞んでゆかなければいいが、と思う。


右脳

    2000 年 6 月

 重い知能障害がありながら、並外れた記憶力を示す症状を「サヴァン症候群」というのだそうだ。計算能力や話す能力は水準以下なのに、一度聞いた音楽を、たちどころにピアノで再現したり、年月日を聞いただけで、一万年後でも曜日がわかってしまう。

 原因は、右脳が異常に発達していることにあるらしい。我々の脳は、幼い頃には右脳が発達しているが、成長とともに左脳が発達し、右脳は能力が衰えて行くのだそうだ。ところが、幼時に脳に障害が起きると、本来失われて行くはずの右脳細胞が障害を補うために生き残り、一般人より右脳が発達することがあるのだという。

 昔、目の前でそれに似た「超人的」な計算能力を見せられたことがある。大学の後輩の男だったが、3桁の数字を2つ言うと、ほとんど同時に、それを掛け算した答が彼の口から出る。同席した仲間が、そのつど電卓で検算するが、答は常に正解である。算盤をやっていたのだろう、と誰もが思うが、その経験はないという。では、どのように計算しているのだ、と問い詰めても、要領を得た答は返ってこない。これとこれで桁が上がって……とか、そんなことを考えるわけでもなく(そんなヒマもない)、本人に言わせると、答の数字が何とも言えぬイメージとして浮かび上がってくるのだそうだ。

 彼は別に知能障害者ではなかったが、何らかの形で右脳の細胞が人より多く生き残っていたのかもしれない。

 そういえば、人は出生直後、立った姿勢で体を支えてやると、両足を交互に出して歩くような動作をする。原始歩行というやつだ。それが、何か月か経つと、その能力が消失し、今度は歩行を学習しなければならない。これも右脳と関係があるのかもしれない。

 右脳から左脳への移行には、どういう意味があるのか、また、失われていく右脳の中に何が入っているのか、とても興味深い。


十時十分前後の話

    1999 年 10 月

 広告やカタログに載っている腕時計の写真では、針がだいたい十時十分あたりを指している。『時計の針はなぜ右回りなのか』(織田一朗著・草思社)によると、これは「長・短針が上向きになり、時計の表情がキリリとしまって美しく見える」「十二時の下にある時計のブランド名が隠れない」などの理由によるもので、古く昭和三、四年の頃からの習慣、というより取り決めなのだそうだ。

 面白いのは、メーカーによって、その時刻に微妙な差があることだ。織田氏によると、セイコーは十時八分四十二秒、シチズンは十時九分三十五秒、カシオが十時五十八分、オリエント、十時十分三十五秒である。それを読んで、あらためて新聞広告を開いてみると、オメガはセイコーと同じ十時八分四十二秒、ロレックスは十時八分三十三秒を指していた。外国の時計にも、同じ決め事があるらしい。

 ちなみに、カレンダー付きの時計は月曜の六日、目覚まし時計は十時八分三秒でアラーム目安針五時(いずれもセイコーの場合)だそうだ。

 デジタル時計では、10時08分42秒を表示すると「42=死に」で縁起が悪いことと、なるべく多くの数字を見せるなどの配慮を加えた結果、7月(または12月)6日、月曜、10時08分59秒が採用されたという。腕時計といえば、直径たかだか三センチ程度のものだが、その狭い空間をいかに有効に、魅力的に演出するかに広告マンたちは細かい神経を使ってきたようだ。

 そのせいか、日本では一年間に約四千五百万個の腕時計、懐中時計と、約三千八百万個の掛・置・目覚時計が売れるそうだ。時計が安価になって普及するにつれ、個人個人が自分の時間を自由に管理できるようになったと、織田氏は言う。そういえば、最近の掛時計は昔のようにボーンボーンと音を立てなくなったが、あれは、たとえ家族の中でも互いの時間に干渉しないようにということか?


君待てども

       1999 年 4 月

 テレビのチャンネルを渉猟していて、思いがけず飛び込んできたなつメロが妙に耳に残っている。

 君待てども 君待てども……

 わけもなく、懐かしいのだ。曲の名は歌詞そのままの「君待てども」。調べてみると、昭和二十三年の曲だという。私はまだ生まれていない。正確に言うと、母の腹の中にいた。胎内学習をしたか、生まれて間もない時期にラジオか何かで流れていたのが幼い脳に擦り込まれたのかもしれない。

 曲の一番の歌詞はこうだ。

君待てども 君待てども
まだ来ぬ宵 わびしき宵
窓辺の花 ひとつの花 青白きバラ
いとしその面影 香り今は失せぬ
諦めましょう 諦めましょう
私はひとり

 作詞作曲は東辰三という人。文語体と口語体を混ぜこぜにして、そこに「バラ」いうバタ臭い言葉で味を付けた不思議な歌詞だ。しかし、日本に「宵」が存在し、若い女が自分の恋心を「いとしい」と表現した時代があったことをしかと記録している。

 昭和二十三、四年頃は、なつメロの宝庫だ。昭和史年表に載っている曲名だけでも「湯の町エレジー」「異国の丘」「憧れのハワイ航路」「青い山脈」と続く。そのどれもが、もう少しあとの、私が物心ついた時分の曲より郷愁を感じさせるのは、どういうことなのだろう。私の時代感覚がおかしいのか、それとも、やはり「擦り込み」なのだろうか。

 ただし、歌謡曲史の本には、こんなことも書いてある。

「当時はまだ戦争直後の食料難で、配給の米を待つ心境を託し、『米待てども、米待てども』という替え歌も流行った……」

 幸か不幸か、私にはひもじさの記憶はない。


書店で

      1999 年 1 月

 調べたいことがあって、いつも行く本屋の奥の方、中学・高校の参考書のコーナーを覗いてみた。

 探したかったのは化学の本だ。中学の頃、ほんの一時期化学クラブに入ったときに、化学実験の参考書を買わされた。それには、たとえば金属の種類を簡単に見分けるための簡単な実験方法が載っていて、通り一遍の教科書とは違い、なかなか面白い本だった。それに似た本がないかと思ったのである。

 ところが、思うようなものは一向に見つからない。化学だけで幅一・五メートルほどの書棚二段を占めているのだが、ほとんどは問題集である。多少厚めの本も、開いてみるとやたらに赤い文字が並んでいて、「これは重要事項だぞ、必ず覚えろ」と強要してくる。なんだか、参考書というより脅迫状のような感じがして、読んで楽しむには程遠い。

 少し身を引いて、全体を見渡してみると、化学だけでなく、ほとんどの書棚が同じような調子である。ビルの一フロア全体を占めるこの書店で、学習参考書は五分の三ぐらいの面積をとっていて、決して本が少ない店ではない。だが、置いてあるのは学習参考書というより受験参考書ばかりだ。

 たぶん、私が思うような本がないわけではないと思う。もっと大きな書店で探せば、きっとあるはずだ。しかし、身近な書店にないということは、置いてもほとんど売れないことを意味する。となれば、そうした本を出版する会社も、どんどん少なくなっているにちがいない。

 学生が受験参考書しか求めようとしないのが原因なのかもしれない。だが、こうした受験参考書のコーナーを見ていると、子供たちが哀れにも思えてくる。彼らが最も接する機会が多いはずのこれらの書籍は、常に彼らを試し、叱咤し、間違えればそれを嘲笑するばかりだ。彼らが本など読みたくないと思うのも無理はない。


永遠のイルザ

    1998 年 12 月

 女は便乗した輸送機の丸い窓に顔を寄せ、飛行場の灯をまだ目で追っていた。そんなものは、飛行機が滑走路を走り始めてから彼女の頬を涙が三粒だけ伝わり落ちる間に、夜の闇と深い霧の中に溶けてしまっていた。

「なるほど、いい奴だったじゃないか」

 男が彼女をちらと横目で見て言った。

「ひょっとしたら、本当に俺は売られちまうのかと思ったぜ。いい奴すぎる。それがあの男の命取りにならなきゃいいがな」

 女は何も返事をしなかった。男は膝に載せた革の書類鞄を大事そうに両手で握りしめたまま、所在なげに機内を見回す。

 飛行機は上昇を続けながら、大きく右に弧を描き、針路に機首を合わせ始めた。目指すは中立国スペインだ。

 女は誰にも聞かれないような小さなため息をついた。……最初はたしかに芝居だった。でも、あの夜からは本気でこの男の代わりに彼と一緒にスペインへ逃れようと思った。しかし、彼はなぜこんな男のウソを見破れなかったのか。それとも、彼にはすべてがわかっていて、私も見放したということなのか……。

「おい、どういうことだ」

男が突然、コックピットの方に向かって声を上げた。

「こんなに旋回したら元に戻ってしまうぞ」

 十人にも満たない輸送機の同乗客が一斉にこちらを向いた。冷たい視線の中から、ソフト帽をかぶった男が立ち上がり、二人の方へやってきて言った。

「安心しろ。元に戻るわけじゃない。ちょっと行先を変えただけだ。祖国ドイツへな」

 ソフト帽の男は、コートのポケットからピストルを取り出し、彼女の連れの男が抱えている鞄をあごで指して言った。

「さあ、わが国から盗みだしたものを返してもらおうか。ゲシュタポは、お前がレジスタンスだなどというウソにだまされるほど甘くはないぞ、このダイヤ泥棒めが」


三十八年前

    1998 年 10 月

 横浜ベイスターズの優勝は三十八年ぶりとのこと。その三十八年前、昭和三十五年の年表をひもといてみた。

 まずは「安保改定デモ」「浅沼社会党委員長刺殺事件」という赤い字が目に付く。なるほど、政治の季節だったのかと思い出す。浅沼委員長が殺されたのはちょうどいまごろ、十月十二日のことだ。ただし、小学五年生だった私の記憶には、それよりも安保改定後に退陣した岸(前)首相が七月に刺された事件の方が鮮明に残っている。近所の学習塾で勉強中に事件の発生が伝えられ、先生と一緒にテレビの前に飛んでいくと、動転して目もうつろな岸サンが「痛い、痛い」と泣いていた。「総理大臣なのに、ずいぶん情けない人だな」と思ったのを覚えている。

 岸政権の後を継いだ池田首相は、この年の末に「所得倍増計画」を発表した。つまり、大洋ホエールズが横浜ベイスターズとなって次に優勝するまでの間、日本の高度経済成長があり、GNP世界第二位があり、バブルがあり、それが弾けて今日の大不況があるということだ。やっぱり長い。

 社会面の出来事としては「ダッコちゃんブーム」「インスタント・ラーメン発売」が目に付く。ヒット曲は「潮来笠」「誰よりも君を愛す」、ベストセラーは謝国権先生の「性生活の知恵」である。洋画は大洋にあやかったわけではあるまいが「太陽がいっぱい」「ベン・ハー」「黒いオルフェ」がヒットした。「ベン・ハー」は映画館の七十ミリ画面に興奮した記憶があるが、他の二本はあとでテレビでしか観ていない。ちょうど映画からテレビへ人気が移りつつある頃だった。

 で、肝心の大洋ホエールズの優勝だが、横浜生まれ横浜育ちの私でも、実のところ何も覚えていない。横浜というより川崎の球団という意識が強いせいかもしれない。だから、この優勝騒ぎも、川崎市民から喜びを横取りしているようで何か気が引ける。


拾う

    1998 年 9 月

 小学校に入るか入らない頃だから、昭和三十年前後のことだったと思う。家の裏手にあった廃品回収業者の屑置き場の近くで親指ほどの大きさの金属の塊を拾った。光沢のない五円玉のような色をし、円筒形の先がずんぐり丸く、手にずっしりくる重さがあった。

 これが大変な宝物になりそうに感じた私は、その金属をズボンの裾の折り返しに入れて家に持ち帰った。なぜポケットに入れずにそんなところにしまったのか、よく判らない。ポケットに穴が空いていたか、あるいは、ポケットではいかにも大事なものを隠していることが悟られてしまうと思ったのかもしれない。なにしろ、その屑置き場をウロウロして、面白そうなものをちょろまかしてくるのは近所の子供たちの日課で、廃品回収業者のオヤジが目を光らせていたのだ。

 冬場のことで、家には掘り炬燵が作ってあった。私は家に帰ってからもその金属をズボンの裾に隠したまま炬燵に入り、夕飯を食べた。食べ終わってから、炬燵を出、良いものを拾った幸福感をいま一度味わおうとそれを取り出したとたん、父に「なんだそれは。見せてみろ」と見つかった。

 私が渡すと、かつて大日本帝国陸軍の兵士だった父は「ジッポウじゃないか。こんなもの炬燵に入れて危ないところだった」と怒ったように言った。父の説明では「ジッポウ」とは「実包」、つまり「実弾」である。翌日、そのジッポウは父の手から警察へ届けられた。警察からは、その後何も言ってこなかった。私の家の近くにはまだ進駐軍の施設が多く残っていたから、実弾が落ちていたぐらいでは事件ではなかったのかもしれない。

 それから数年後、友達がやはりどこかで拾って見せてくれた薬莢から、私が拾った銃弾は四十五口径のピストルの弾丸だと知った。


ミュンヘンで思ったこと

    1998 年 3 月

 第二次大戦後のドイツでは「非ナチ化法」によってナチスの思想が徹底的に排除されたと聞いていたが、昨年夏、ナチス発祥の地ミュンヘンを訪れ、ナチスゆかりの建物が多く残されているのを見て意外な感じがした。

「ドイツ芸術の家」という美術館は、列柱のあるギリシャ建築を模倣した、いわゆる「第三帝国様式」をそのまま伝えているし、市の中心に程近いケーニヒス・プラッツには、かつてのナチス時代の省庁がいくつも──むろん用途は違うが──現存している。現在、音楽大学として使われている建物は、傍の案内板の説明によると「総統官邸」である(ここは、かの「ミュンヘン協定」が結ばれた場所ではないかと思われるが確かではない)。さすがに、ナチスの「英霊」をまつった霊廟は戦後まもなく爆破されて跡形もない。ただし、なぜか基壇だけは残っている。

「利用できるものは利用すればいいでしょ?」と「知られざる第三帝国の故地めぐり」のガイドで大学の研究員でもあるというドイツ人女性。しかし、そういう合理的な考えとは別に、あのころを懐かしむ気持ちも潜んでいるのかもしれない。

 ところで、「故地めぐり」で最初に連れて行かれた場所は「ホーフブロイハウス」という有名なビヤホールだった。かつてビヤホールは屋外の広場、つまり「プラッツ」と同様に集会場としても利用され、政治的な会合や演説会はほとんどビヤホールで開かれたそうだ。ナチスもその例に洩れず、ヒトラーがその弁舌を磨いたのもビヤホール、失敗に終わった武装蜂起の「ミュンヘン一揆」も、出発地はビヤホールだった。

 ビールの本場だからだろうか、それとも、洋の東西を問わず、政治を語るには酒が欠かせないということなのだろうか。それにしても、料亭での談合に比べ、ビヤホールでの演説会とは豪快で近しさを感じる。日本でも立会演説をビヤホールでやってはどうだろう。


卑怯とは

    1998 年 2 月

 中学生の少年が教師をナイフで刺し殺した事件は「なぜ子供たちは『キレる』のか」とか「なぜ彼らはナイフを持ち歩くのか」といった視点で論じられることが多い。が、私はその他の少年犯罪に共通した「卑怯さ」を感じる。

 教師ではあれ、相手は女性である。しかも素手だ。それに対してナイフを取り出す者は最初から卑怯者だ。

 徒党を組んで「オヤジ狩り」をする者、年下の子を狙って生命をもてあそんだ酒鬼薔薇少年も、みな卑怯だ。「ちびまるこ」の藤木クンは、自らの卑怯を恥じて涙さえ流すのに、現実の子供たちはなぜこうも卑怯になってしまったのか。

 子供たちだけではない。たとえば、オウムのアサハラは現代の卑怯の典型だ。自分では手を下さず、すべての犯罪を弟子にやらせた。捕まれば盲目であることで同情を引こうとし、法廷の中ですら、かつての弟子に圧力をかけようとする。

 政治家の小沢一郎という人も卑怯である。彼は日本人が情緒的で合理的な思考ができないと嘆く一方で、選挙に勝つために、さして政治に関心があるとも思えないタレント候補を何人も引っ張り出した。金権腐敗と言われた田中・金丸政治の中枢にいたことをみずから断罪もせず、政治改革を唱えている。

 まだある。大蔵省の官僚も卑怯である。プロ野球選手の脱税を告発しながら、OBの脱税の罪を問おうとしない。大蔵省だけでなく、考えてみれば、汚職や「不祥事」にかかわる役人どもは、すべて卑怯者だ。彼らは公権力の威を借りて私利を図った。

 広辞苑を引く。卑怯とは「心だてのいやしいこと。卑劣。心が弱く物事に恐れること。勇気のないこと。臆病」とある。そういえば、卑怯が憎まれたのはチャンバラ映画が華やかな頃だったかもしれない。だが、卑怯を憎む風潮が薄くなるのは良いことではない。


    1997 年 12 月

 私の手相は、いわゆる「マスカケ」線というやつで、徳川家康と一緒である。残念ながら人生の進み具合は家康とだいぶ違うが、最近になって、家康同様、薬好きになってきたきらいがある。

 つい最近も、新しい薬が私の常備薬入りを果たした。「キューピーコーワゴールドA」という滋養強壮剤である。きっかけは、口内炎の薬(これは「ケナログ」が私の愛用薬である)を買ったときにもらった試用品。たまたま風邪気味で気分がすぐれなかったせいもあり、あまり期待もせずに一錠呑んでみたら、アラ不思議、その日は身体も軽く、風邪もどこかに吹き飛んでしまった。残りの一錠を呑んだ妻も「何か調子がいいいみたい」で、まんまと製薬会社のワナにはまり、八十錠入りひとビンを購入することになった。効能書きにいわく「疲れている時、自律神経を調整する作用があります」。妻に言わせると、要するに私も更年期なのだそうだ。

 そういえば、もうひとつ。最近買い込むはめになったジジくさそうな薬がある。龍角散だ。このごろ、なぜか喉に痰がからむのである。私の診断では、これは肺結核か肺ガンの兆候ではないかと考えられるのだが、妻は単なる老人化現象を主張して譲らず、この、一箱数百円の粉薬で済ます魂胆である。彼女は、ついこの間、私の生命保険の契約内容をグレードアップしたばかりだ。

 ところで、その龍角散を呑んでいて、思いがけない発見があった。タレントの島田紳助と漫才のコンビを組んでいた島田竜助をご存じだろうか。いまや紳助が司会業などでテレビの売れっ子であるのに対し、竜助の方はすっかり忘れられた存在になってしまった。その悲運の原因が判ったのだ。要はコンビを組んだ相手の名前が良くなかった。「りゅうすけさん」の相方は「しんすけさん」でなく「りゅうかくさん」でなければならない──おあとがよろしいようで……。


宇宙への夢

    1997 年 7 月

 現在火星を探査しているマーズパスファインダーの主な任務は、火星での生命の痕跡を調べることだそうだ。それだけ聞くと「夢」を感じるが、送られてくる写真は、無情にも石ころだらけの荒涼とした風景を鮮明にさらけ出し、夢を打ち砕くばかりだ。

「大昔に大量の水があったことを確認した」というNASAの発表も、その早さから考えると火星到着前に結論が出ていたようで、さっぱり感動を覚えない。それでなくてもカメラの前に見たこともない生き物がヌッと顔を出したり、せめて「んっ」と思わず画像に見入ってしまう何かを期待したかった私としては、どうも物足りない。また、だれも最初からそのようなことを期待していそうにないシラけた雰囲気も気に入らない。もはや宇宙探検もあまりに現実になりすぎて夢を持てないということなのだろうか。

 ところで、今年は人類初の人工衛星スプートニクが飛んでからちょうど四十年目、また、日本最初のプラネタリウム「五島プラネタリウム」も開館四十周年とのことだ。それで思い出すのは、開館直後の五島プラネタリウムで買った天文解説書に紹介されていた「月のクレーターがどうしてできたか」についての三つの説である。大昔に火山が爆発した跡だという説と、他から飛んできた隕石が衝突した跡だとする説、そして最後の一つは、その昔、固まる前のマグマのような状態だった月に大きな泡ができて、それが破裂した跡という説だった。これを読んで、小学生の私は最後の「泡」説に肩入れすることに決めた。

 ところが、その後の研究で(月のクレーターに限らず)火山説と隕石説はどちらも正解らしいことが判ったのだが「泡」説は一向に奮わず、ささやかれもしなくなった。

 それでも、直径数千キロもの大きな泡がプチンと破裂するさまは、想像するだけでも楽しい。私としては、いつか「泡」説が実証されることに宇宙への夢をつないでいる。


日常の写真

    1997 年 3 月

 近くの図書館から「明治の日本《横浜写真》の世界」(横浜開港資料館編)を借り出して読んでいる。主に明治時代中・後期の風景や風俗を撮影して、絵具で彩色した写真を集めたものだ。刊行の目的によるものかもしれないが、いわゆる名所旧跡の写真は少なく、当時としては珍しくもなかったであろう日常の情景を写したものが数多く収められている。それが、かえって生々しく、さまざま想像をかき立ててくれる。

 たとえば「伊勢佐木町の劇場街」をよく眺めると、雨天でもないのにコウモリ傘を差している人が何人もいる。なんだこれは?と他の写真も繰ってみると、現在に比べて帽子を被った人間がやけに多いのに気が付く。印半纏に手拭いで頬被りした男や、饅頭型の編み笠を頭に載せている車夫らしき人物もいる。

 さらにページを繰っているうちに、どの町並みの写真も、上空がいやにスカスカしていることに気付き、理由らしいものがおぼろげに判ってくる。アーケードがないのだ。店も日除けのない造りだし、客が店の中をひやかすような広さもない。繁華街といっても、当時は、特に何かを買う予定がなければ、ひたすら表の通りをぞろぞろと歩くしかないようだ。それも、雨の日にそのような馬鹿げたことをする者はいないだろうから、外に出る日は当然晴れ日であり、いったん外出したら目的地に着くまでは頭を日差しに曝しっぱなしにする覚悟でなければならない。被り物は不可欠である……。

 そんな想像を楽しみながら、私はある知人夫妻のことを思い出した。その夫妻に見せてもらった旧東独滞在中のアルバムも、ほとんどの写真が、自分たちの住んだ街のごく日常的な風景を写したものだった。「たぶん、そのほうがあとで想い出になると思ってね」

 以来、私もどこかへ出かけたときには、なるべく「日常」の写真を撮りたいと思っているが、これが案外難しい。


どうでもいい年齢研究
幕末の志士たちの場合

    1996 年 11 月

 幕末の志士というと、やはり坂本龍馬が一番人気がありそうだが、その坂本龍馬は十一月十五日(旧暦)が命日である。刺客に襲われて絶命したのは、慶応三年(一八六七年)だから、いまから百二十九年前になる。享年三十三歳。

 で、幕末をさまざまに生きた人間たちの年齢関係を、龍馬を中心にして調べてみた。多少なりとも、お互いをどう見ていたかが解るのではないかと思ってである。

 まず、龍馬が薩長同盟を結ばせようと間を取り持った西郷隆盛と木戸孝允(桂小五郎)だが、西郷は龍馬より八つ、木戸は二つ、それぞれ年上である。西郷が後に江戸城引渡しの談判をした相手の勝海舟は、龍馬の師でもあるが、龍馬より十二歳、したがって西郷より四つ年上である。公卿の岩倉具視も、龍馬より十歳年上で、この西郷、勝、岩倉の三人は龍馬より一つ上の同じ世代と言えるかもしれない。

 逆に、龍馬がピストルをもらった高杉晋作は、龍馬より四つ若い。死んだのは龍馬より数ヵ月前だから、本当に若くして名を残し、駆け抜けるように世を去った。彼の師、吉田松陰は、晋作より九つ上、龍馬の五つ上だ。

 龍馬の大政奉還論を土佐藩代表として建白した後藤象二郎も、龍馬より三つ年下である。そのバックボーンとなった山内容堂は意外に若くて、龍馬より八つだけ年上、つまり西郷と同い年である。

 幕府側では、大政奉還策を受け入れて龍馬を感激させた将軍徳川慶喜は、実は龍馬より二つ年下である。また、龍馬暗殺の犯人として濡れ衣を着せられた新撰組・近藤勇も、龍馬より一つだけ年上にすぎない。やはり、この時期は幕府側も若手を登用して時局に対処せざるをえなかったということか。

 最後に、龍馬の妻お龍は龍馬より六つ年下だった。龍馬のちょうど二倍、六十六歳まで生き、明治三十九年に横須賀で没している。


池永敏英さんのこと

    1996 年 11 月

 もう四半世紀も前のことになるが、文化放送というラジオ局の報道部に池永敏英さんという記者がいた。体はやや太め、色白で大きな目をしており、何が起きても動じる気配がない。しかし、豪傑肌というのではなく、精緻な頭脳と豊かな知識の持ち主だった。

 池永さんのことを「文化放送の知恵袋」と評した人がいた。事実、どのような分野のニュースであろうと、池永さんの頭の中で正しく理解され、的確に整理されて、放送用の短い文章に凝縮された。普段の話でも、諸事百般、池永さんを前にして自らの知識を誇れる者はなかった。文学、美術、料理、音楽、SF、果ては、どの真空管がステレオに最適かといったマニアックな話まで、池永さんの口からは、いくらでも、とめどなく北関東訛りの解説を聞くことができた。

 池永さんは反骨の人でもあった。東欧を旅したとき(何のための旅だったのかは判らない)国境で「使い残した通貨の国外持出しは認めない」という横柄な役人の目の前で、紙幣にライターで火を付けたという。また、権威におもねることを憎んだ池永さんは、労働組合のストのとき、応援に来てくれたある政党の国会議員に対しても、その迎合的な姿勢に非難の野次を浴びせて憚らなかった。

 池永さんの最も得意としたところは、簡潔で一切無駄のないニュース原稿を書き上げることだった。長いものでも、アナウンサーに読ませてせいぜい四十秒。そこにニュースのエッセンスをすべて盛り込むことでは、天才的な技を見せてくれた。その池永さんが、一度だけ異様に長いニュースを書いた。それは、沖縄返還のときだった。晴れがましい返還の式典などに文字を費やさず、返還後も沖縄に残される米軍施設の名前をすべて綴って、電波に乗せたのだった。

 池永さんは、昭和五十五年、くも膜下出血で突然世を去った。享年四十三歳だったという。


本牧通りのこと

    1996 年 9 月

 私の生まれたところは、横浜の桜木町から本牧へ向かう、通称本牧通りである。この通りは桜木町駅前から伊勢佐木町の繁華街や元町の商店街を結び、さらに、昭和三十年代までは海水浴場でもあった本牧、三溪園地区、米進駐軍のPXやハウスが並ぶ小港地区へ通じる横浜のメイン・ストリートで、昭和四十年代の前半まで数系統の市電が通っていた。

 私の家は元町から麦田のトンネルを抜けた少し先にあり、この「電車みち」に直接面して瀬戸物屋を営んでいた。その話をすると、「うるさくて大変だったろう」とよく言われるが、生まれ落ちたときから市電の音を聞いている私の耳に市電の音は無音に近かった。

 私は、店の二階から張り出した日除けの上から、よく、この通りと市電を眺めて時間をつぶした。市電の車両は、大きさや型がさまざまであるうえ、車体に書かれた番号から一台一台を識別でき、個性が豊かだった。たまに、珍しい無蓋貨車が予告もなく現れて私を夢中にさせた。五、六月の港まつりのころには、電飾を付けた「花電車」が何台も夜の通りを走った。そんな市電と張り合うように、米軍人の子供たちを乗せたスクール・バスが毎日行き交い、ときにはMPのパトロール・カーがサイレンを鳴らして疾駆した。一度だけだが、進駐軍の戦車が何十台も移動して行くのを見たこともある。

 そうした風景が、突然変わった。それまで、この通りを走っていた日本人の乗用車は、ダットサンやルノー、ヒルマンだけだったのに、アメリカ人が乗っているようなスマートな車が現れ始めたかと思うと、たちまち古い型を駆逐し、溢れるばかりに通りを埋め始めたのだ。いつのまにか、三溪園から先の海水浴場も根岸の埋め立てで壊滅し、国鉄根岸線が開通すると本牧通りの市電はすっかり邪魔者にされ、やがて消えて行った。大量の車が無表情に走り抜ける現在の本牧通りには、懐かしさよりも殺伐としたものが感じられて悲しい。


マラソン

    1996 年 8 月

 テレビに二時間半かじりついて、久しぶりにマラソン中継を見た。アトランタ・オリンピックの女子マラソンである。

「日本の三選手の金、銀、銅も期待できる」という前評判に釣られたのが半分、そういう甘い皮算用をするマスコミや評論家の泣きっ面でも見てやろうかという意地悪な気持ちが半分で、私の観戦態度は選手たちにとって、はなはだケシカラぬものであったに違いない。

 しかし、レースは非常に見応えのある、素晴らしいものだった。特に、上位を争った個々の選手の個性が、これほど明らかに現れたレースも珍しいのではないか。

 金メダルを獲ったダークホース、エチオピアのファツマ・ロバ。大きな歩幅の躍動感あふれる彼女の走りは「躍走」と呼ぶにふさわしかった。

 二位、ロシアのワレンティナ・エゴロワは、いつ見ても「頑強」な感じがする選手で、走りっぷりも堅実で沈着である。彼女には「堅走」という言葉を送りたい。

 三位に入った日本の有森裕子は、エゴロワに比べると実にひ弱に見える。前回のオリンピックのあと、足を痛めて選手生命が消えかけたと聞いたが、それを乗り越えた粘り強い走りは「軟走」とでも呼ぼうか。

 さらに、いったんは先頭争いから脱落しながら、有森の銅メダルを脅かしたドイツのカタリーナ・ドーレも、大柄な身体でしたたかな「重走」を見せてくれた。

 そんな言葉遊びをしながら、レース後のインタビューを聞いていたら、有森選手が「(マラソンを走って)死んでもいいと思った」と話していた。そのときは、単なる強調表現と聞きすごしたが、レース前に予想されたアトランタの酷暑などを考えると、それが決して大袈裟でないことに気が付いた。

 マラソンは、たしかに「オリンピックの華」だが、走る彼女たちは文字通り命懸けであるかと思うと、ギクリとする。


死者の数

    1996 年 6 月

 去年の末頃、小学六年生だった娘に、
「第二次世界大戦で日本では何人死んだの?」と訊かれて、答えに窮した。

 三百万人──という、うろ覚えの数字があったが、どこから仕入れた情報か確かな記憶がなかった。それを何かの拍子に思い出し、この春、中学に入った娘に歴史の教科書を持って来させた。だが、予想に反して、前の戦争での死者の数については書かれていなかった。私の本棚に二十年ほど前に弟が高校で使っていた日本史の教科書が残してあるが、そこにも載っていない。「張鼓峰事件」や「南部仏印進駐」「大東亜会議」「ミッドウェー海戦」といった、かなり詳しい事柄がゴシック書きで載っている一方、太平洋戦争で一体何人の日本人が死んだのか、という基本的な疑問に答える記述がない。

「なるほど、これが文部省の検定というものか」と改めて納得した。文部省がその記述を許さない理由については、おそらく「定説がない」「明確な数が判っていない」ということだろうと想像がつく。むろん、すべての教科書を見たわけではないので即断はできないが、戦争というものについて語るときに、死者の数について記述が皆無というのは合点が行かない。「一説には……」という書き方ででも触れることが許されないとしたら、そこには作為があるとしか思えない。

 ちなみに、『50年目の「日本陸軍」入門』(文春文庫)によると、昭和十六年から足かけ四年にわたる太平洋戦争の戦死者は二百十二万人。そのうちの実に二百万人はもはや戦争に勝てる見込みはなくなった昭和十九年から二十年までの最後の一年間に死んでいるそうである。また、この頃に生起したインパールやフィリピンでの戦いは、戦闘による死よりも、餓死や病死について語られることのほうが多い。そのような悲惨な死者たちが、教科書の中で数としても数えられずに忘れられていいわけがないと思うが……。


いまどきの若いモンは

    2002 年 10 月

「いまどきの若いモンは……」とは、古代エジプトの時代から、人類の大人たちに共通したボヤキだそうである。古今東西、さまざまな文献にその種の言及があるというし、私自身、若いときは、少しく不愉快な発言として何度もそれを聞いたことがある。また、いまは自らがそれをたびたび口にし、同世代の同意をとりつけて鬱憤のはけ口としている。

 とくに、先日の西友の偽装牛肉販売事件で返金を求めて押し掛けた若者たちのニュースなどを見聞きすると、そのあさましさに腹が立つ、大体いまどきの若いモンは、平気で嘘をつき、自分より弱い者を狙っていじめ、衆を頼んで不埒を働く。こんな連中がいっぱしの親になって、またどうしようもない子供たちをバンバン作っていくのかと思うと、空恐ろしくて「世も末だ」と思う。

 そんな思いを人類が数千年間、いや、もしかするともっと長く持ち続けてきたとすると、世の中は、とっくにどうしようもなく救いようのない、ぐちゃぐちゃの世界になっていてもよいはずなのだが、実際には、どうもそうではない。むしろ、昔よりは良くなっているようにさえ見えるから不思議だ。となると、「いまどきの若いモンは……」という判断自体が誤りのようにも思えるが、それだけは譲りたくない。

 結局、当たり前の話かもしれないが、駄目な親が必ずしも駄目な子だけを残すとは限らないと考えるしかない。人間が生まれるとき、魚類から順に進化の歴史をたどって身体が形成されるそうだ。それと同様、人間の精神も「再生産」されるときは、親以外の、はるか昔の原型が基礎となっているのかもしれない。だから、「いまどきの若いモンは……」と親たちを嘆かせる人間と、そうでない人間の比率は実は常に一定で、だからこそ「いまどきの……」と嘆く大人が絶えず、それでいて世の中は破綻せずに釣り合いがとれてゆく――。

 もしかすると、これは神の摂理か?