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シフナー考(後編)

V2.00


第一次世界大戦下の生活

■1914 年(大正 3 年)に勃発した第一次世界大戦で日本は日英同盟のつながりから連合国入りし、ドイツとの国交を断絶します。しかし、それまでの友好関係をできるだけ維持したかった日本政府は、開戦から 2 年あまりの間、在日ドイツ人の生命・財産に対して戦前とほとんど変わらない保護を与えていました。貿易の面でも、ドイツからの輸出は国交断絶と同時に途絶したものの、1917 年(大正 6 年)の対敵取引禁止令施行まで、ドイツ人貿易商は実質的に営業を継続することが可能でした。しかし、シフナーは開戦の年を最後に、JD に貿易商人として名前を見せなくなります。このとき、シフナー 48 歳、11 歳を頭に前年に生まれたばかりの四男フリードリヒまで 5 人の子供を抱えており、まだ引退するには早すぎる年齢です。早々とシフナー商会を閉じたか休止したのには、戦争以外にも何か理由があったのかもしれません。

■それ以後、シフナーは単なる大神宮山の住人として JD に記されています。『山手物語』には、ヴィラ・サクソニアの敷地内で野菜を作ったり、山羊や鶏を飼っていたことが記されていますが、それらも、困難な時代に糊口を凌ぐすべのひとつだったのかもしれません。風車小屋に当時としては珍しい発電機と無線装置があるとして、あらぬスパイ容疑を受けたりもしたというエピソードは、その頃のことでしょう。

ドイツに宣戦したときの日本政府の訓令には、ドイツ人に対し「平穏かつ適法の業務に従事する限り法令の定むる所に従ひて身体生命名誉および財産を保護し....年来の交誼に顧み帝国および同盟国の利益と抵触せざる限り帝国内において、なるべくだけ完全の保護を享け」られるようにしたいと、わざわざ謳われています(引用部分の表記は一部現代風に改めました)。


管理下に置かれた資産

■1918 年(大正 7 年)に第一次世界大戦でドイツの敗北が確定的になると、日本にいたドイツ人の財産は賠償の担保として日本政府の管理下に置かれ、日常生活に必要な物品や資金以外を勝手に処分できなくなります。そして、ヴェルサイユ講和条約の調印後、それらの管理財産は、1 万円以下であれば全額、1 万円以上の場合は 1 万円+残額の 5 割が 1920 年(大正 9 年)中に返還されることになります。シフナーが大神宮山に持っていた土地と建物も当然その対象となり、この清算に際して、換価のための競売に掛けられます。

■この競売で、シフナーは実際の処理にあたった神奈川県の処置に問題があったとして、在日ドイツ大使館を通じて日本政府にクレームを付けています。競売物件 2 件のうち、一方は 1 万円で売れるはずのものが不当に安く落札されたとし、もう一方(ヴィラ・サクソニアです)については、もっと安く落札できたのに不当に高くなったという一見矛盾する内容です。シフナーは、ヴィラ・サクソニアについては日本国籍を取得した元オーストリア人を通じて自分が買い戻そうとしていたために、こうした主張になったようです。

■この件は 1921 年(大正 10 年)末から翌 1922 年(大正 11 年)秋まで遷延しますが、日本政府は、2 度にわたる調査の結果、競売手続きには何も問題がなかったとし、シフナーの完全な敗北で決着します。シフナーは後々まで子供たちに、日本政府によって私有財産を差し押さえられ、結局 70% しか返してもらえなかったと、その不当性を訴えていたといいます。

一時帰国、震災、離日へ

■この競売が行われた時期と、それに関するシフナーからの不服申し立てが行われる、ちょうどその間の時期に、16 歳の次男ルドルフがドイツに渡っています。彼は実業高等学校に入学し、そのままずっとドイツに留まることになります。これが彼にとって初めての渡独で、OAG 資料によると、両親も一緒だったとされています。シフナー 55 歳のときですが、子供たちは皆まだ幼少期なので、一家全員でドイツを訪れたのかもしれません。この 1921 年頃は、第一次大戦で本国との連絡を絶たれていた在日ドイツ人が、ようやく落ち着いてきた母国に戻って親類・知人を見舞いがてら、今後の身の振り方や事業再興の方途も考えようという時期でもあったようです。

■ドイツから日本に戻り、土地競売の一件が落着してからちょうど 1 年後、横浜を関東大震災が襲います。『横浜中区史』によると、ヴィラ・サクソニアを象徴していた風車は、このときに倒壊したとされています。ただし、1923 年(大正 12 年)9 月 1 日の地震では、大神宮山で特に大きな建物被害は報告されておらず、火災も起きていません。『震災直後の「ヴィラ・サクソニア」』のページに示した写真でも「倒壊」とするほどの破壊は見られません。これに関して、次男ルドルフは「1923 年の 9 月 1 日と 1924 年 1 月 15 日の2回の地震で家(複数)が完全に破壊された」と後に語っています(当時ルドルフは実際には日本にいなかったので、おそらく父親らからの伝聞でしょう)。

■1924 年(大正 13 年)1 月の地震は、関東大震災の単なる余震と見なされているのか、現在ではすっかり忘れられていますが、理科年表によるとマグニチュード 7.3 の大地震で、神奈川県中南部を中心に死者 19 人、家屋全壊 1200 余というかなりの被害を出しています。ヴィラ・サクソニアに関しては、この2回目の地震で倒壊した可能性があります。その 1924 年(大正 13 年)に、シフナーは住所をすぐ北隣にある別棟に移しています。そして、JD1927 を最後に、在日外国人名簿から完全に姿を消します。シフナーが持っていた土地も、昭和 5 年までにすべて日本人名義に変わっています。

■これらのことから、シフナーは遅くとも 1926 年(昭和元年)には、すべての資産を処分して、一家全員でドイツへ帰国したと思われます。一説には、横浜に滞在したのは 1924 年までと言われています。57 歳のときです。ヴィラ・サクソニアを失ったことが大きな痛手だったと考えられます。

地図に記されたシフナー邸の風車

『横浜火災図』(横浜中央図書館所蔵)より

大日本帝国陸地測量部大正12年10月発行、『横浜火災図』(横浜中央図書館所蔵)より

これまで、シフナー邸の風車の位置を確定的に示す資料が見つからなかったのですが、国土地理院の前身である陸地測量部が大正 11 年に測図した横浜近郊図に風車が地図記号で明確に記されていることが判りました。上図は、それを下敷きに大正 12 年(1923 年)9 月 1 日の関東大震災時の火災被害を表した地図の該当部分です(図の上にマウス・カーソルを置いてみてください)。×印に縦棒を加えた記号は明治から大正にかけて使われた風車の地図記号です(「オフィス 地図豆」さんの Web サイト「おもしろ地図と測量」を参考にしました)。

なお、陸地測量部の地図は建物の形態もある程度正確に写し取っています。というわけで、この部分の拡大図も示しておきます。

『横浜火災図』(横浜中央図書館所蔵)より

シフナーのその後

■帰国後のシフナーは、ナチス・ドイツの勃興と滅亡、ドイツの東西分裂という激動の時代を生き抜き、1959 年(昭和 34 年)にハンブルク=ベルゲドルフで 99 歳という長寿を全うしました。ドイツでは、早世した長男に代わって次男ルドルフが一家の支えとなったようで、彼はいったんは父と同じ貿易商人の道を進みますが、一家の帰国とほぼ時を同じくして法律家へと転身し、1934 年には上級国家公務員試験にも合格します。また、学究の徒としても日本で育った経験を活かし、日本の五保(五人組)制度に関する論文を 1936 年に発表しています。

■父シフナーが二度と日本の地を踏むことはなかったようですが、家族の話では、ルドルフは戦後、1975 年(昭和 50 年)にほぼ 50 年ぶりに来日しています。現在横浜開港資料館に所蔵されているヴィラ・サクソニアの写真は、その折にルドルフ自身が持ってきたコピーではないかと考えられます。

(2011年1月記、2014年12月更新)

前編の注に長々と原題を示した次男ルドルフの論文は、表題を訳すと「大化の改新期および徳川時代の日本における国家および地方行政と社会平和の基盤としての五保(五人組)制度」というものです。この書籍は現在でもいくつかのドイツの図書館や研究機関の蔵書リストでヒットするので、この分野の研究で利用されることが少なくないようです。


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