新型コロナ・ウイルス禍にちなんで --横浜とペスト-- |
■新型コロナ・ウイルス禍の影響でカミュの「ペスト」(新潮文庫本)の発行部数が百万部を突破したそうです。開港以後の横浜における伝染病としてコレラのことがよく知られていますが、より致死率の高いペストが明治・大正期に6回にわたって流行し、ペスト菌を媒介するネズミの根絶と徹底的な消毒のため、横浜で中世ヨーロッパさながらに家屋を焼く措置が取られたことはあまり知られていないようです。 ■昨年、昭和末まで磯子区・滝頭にあった万治病院のことを調べているときに、「横浜疫病史 万治病院の百十年」(1988年、横浜市衛生局刊)のその部分もコピーして手元に残してありましたので、今月3日の投稿と同じく、受け売りみたいなものですが、ご紹介します。 ■なお、現在、コロナで市の図書館での閲覧は不可能になっていますが、補完情報として、明治43年にまとめられた「神奈川県ペスト流行史」が市立図書館のデジタル・アーカイブと国立国会図書館のオンライン・データで閲覧できました。以下はそれらと、信頼できそうな Web サイトからつまみ出して実録風にまとめたものです。 --------<ペストの世界的流行>■ペストの世界的な流行(パンデミック)は有史以来3回あったことが記録されている。1回目は6世紀の東ローマ帝国ユスティニアヌス1世皇帝(在位 527〜565年)の時代。エジプトに初発し、パレスチナを経て首都コンスタンチノープルへと広がり、最盛期には毎日5千人から1万人の死者が出たという。その後さらに旧西ローマ帝国の領域にも拡散し、約1世紀の間(一説によると8世紀末まで)中小規模の流行が繰り返された。 ■2回目は 1347 年。中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、主にヨーロッパで猛威を揮った。14 世紀末まで3回の大流行と多数の小流行を繰り返し、当時のヨーロッパの人口の3分の1から3分の2にあたる約2千万人〜3千万人の命が失われたとされている。「黒死病」の俗称が生まれたのは、このときである。 ■そして3回目がカミュの著作のモデルになった 19 世紀末の大流行である。これは中国・雲南省で 1885 年に流行した腺ペストが起源とされ、1894 年(明治 27 年)の香港での流行が世界的に拡大したものである。このとき、日本政府の調査団の一員として香港に赴いた北里柴三郎らによってペスト菌が発見され、ペストの原因が初めて特定された。これでようやく有効な治療法を開発する道が開かれ、現在では非常に有効な抗菌薬が存在するが、世界的に見るとまだ絶滅には至っていない。 <ペストの日本上陸>■日本国内での初のペスト患者の発生は、1899(明治32)年 11 月、神戸でのこと。このときは大阪、静岡へと感染が北上し、神戸では 23 名(うち 19 名死亡)、大阪では 44 名(うち 41 名死亡、2名は疑似症)の患者が出た。致死率は神戸の場合が 83 パーセント、大阪の場合は 93 パーセントに達した。横浜では、その5ヵ月前、長浜検疫所に赴任したばかりの野口英世がペスト患者の上陸を文字どおり水際で食い止めたこともあったが、それまでにも台湾やインドなどからの来航船で毎年ペスト患者が見つかっており、早晩、横浜上陸も避けられないと考えられていた。 <横浜での患者発生>■1902(明治 35)年 10 月5日午前11時頃、横浜市本町の医師と横浜市立十全病院長の両名からペストの疑いがある患者が出たことが報告され、国の伝染病研究所(いわゆる伝研)員でもあった神奈川県の技師による検査で真性のペストと確認された。横浜で発生したペスト患者第1号であった。 ■患者は横浜市海岸通5丁目で「人夫請負業」つまり港湾労働者の派遣・斡旋業を営んでいた家の 16 歳になる長女だった。この「少女」(原資料の記述に従います)は9月29日に発病し、高熱と脳症、リンパ腺の大きな腫れなど、典型的な腺ペストの症状を示しており、5日深夜、意識が朦朧とした状態で当時まだ十全病院の付属施設で現在の南区浦舟町にあった伝染病専門の万治病院に収容された。 ■「腺ペスト」は、ペスト菌に冒されたネズミやノミに噛まれたり接触したりした傷口や粘膜から感染し、多くの場合、リンパ節が腫れて激痛を生じ、発熱、頭痛などの症状が現れる。それだけならヒトとヒトとの間の感染は起きないが、ペスト菌が血流に乗って全身に広がるとショック症状で昏睡状態になり、手足の壊死や紫斑が起きて「黒死病」の名の所以である「敗血症型ペスト」に進んだり、肺炎を併発して「肺ペスト」を発病したりする。肺ペストの場合、強烈な頭痛、嘔吐、高熱、急激な呼吸困難に陥り、排出された血痰などからヒト間の飛沫感染も起き、通常は24時間以内に死亡するという。 ■少女の家があった海岸通5丁目20番地は、現在の万国橋通りに面した土地で、現在は横浜法務局となっている建物と昨年9月にオープンしたアパホテルの間のあたりだ。明治 35 年当時は、南側の横浜法務局のところに横浜地方裁判所が建ち、東側には内国用の貨物を扱う日本波止場があった。北側はまだ海で、新港埠頭を造るための埋め立てが進められていた。当然ながら万国橋はまだなく、このあたりには多数の倉庫のほか、船舶や貨物に関係する労働者の住居や下宿、およびそれらの人々の生活物資を商う人々の家などが密集していた。 <あいつぐペスト患者の発生>■神奈川県と横浜市では、翌10 月6日、少女の家とその近隣の計4戸44人に対して「交通遮断」を行い、周囲を急ごしらえの板塀と帆布で囲んだ上、消毒作業を行い、患者の家の関係者を横浜市扇町4丁目にあった 150 坪ほどの隔離所へ収容した。また、近隣住民の健康調査とペスト菌を媒介するネズミの駆除を開始したが、この日、少女の家に寄宿していた 61 歳の港湾労働者が発病後帰宅していた子安村で死亡したことが判明した。このため、子安村の 15 戸 58 人に対しても直ちに交通遮断が執行された。子安村は当時市域外だったので、近くの寺が臨時の隔離所にしつらえられて感染のおそれがある人々を収容した。 ■さらに7日には、日本波止場に接したブロックで3人目の患者が見つかった。この 26 歳の港湾労働者は夜8時過ぎに万治病院に収容されたが、この日午後1時に死亡した第1患者の少女の後を追うかのように、翌8日朝6時、鬼籍に入った。 ■患者発見の通報は8日と9日も続いた。4人目の患者は結果的に真性ペストでないことがわかったが、5人目は海岸通5丁目 20 番地の豆腐商の雇い人だった。また、少女の家と隣家の綿花倉庫などからペスト菌に感染したネズミ 10 匹と有菌だった可能性のある死んだネズミ 11 匹が見つかった。付近の住人の中には、患者発生前にネズミの数が著しく減ったので火事の予兆ではないかと危惧していたという者もおり、感染の広がりがどの程度にわたるか予測できなかった。 ■このため県と市は8日に交通遮断を海岸通5丁目20番地全域に拡大し、それでも小さな家屋が密集したこの地区を完全に消毒しネズミを駆除するには単純な薬物消毒では不可能と考え、地区全体を焼却することにした。ついては、対象となる 196 戸 1256 人の全住民を収容する大規模な臨時隔離所を建築する必要があり、その選定作業が行われた。 ところで...焼却を決めるに当たって、「横浜疫病史」では、北里柴三郎の「良策なければ愚策もやむなし」という進言によるもので、焼却決定は 10月5日とされています。しかし、「神奈川県ペスト流行史」の日々の記録には、私の読んだ限りでは焼却が決定された日は明記されていません。また、最初の患者発生で即日、約 200 戸の焼却まで決定するのは少し考えにくいと思われます。さらに、決定に至った経緯について、 「ほとんど家屋を崩壊するの程度に達するにあらずんば決して完全なる消毒および除鼠の目的を達し得べくもあらず、その病毒は濃厚にして根底はなはだ深く、とうてい単純なる薬物消毒のみにては病毒を絶滅するの不可能なるを認め、断然同地区の全部を焼却するに決せしも、これが実行に関して種々なる困難に遭遇するに至れり」 と、ずいぶん弁解がましく、持って回った言い方がされています。おまけに、臨時隔離所への住民の移送時には、のちに沸き起こるような住民からの強い抵抗はなく、移送はスムーズに行われたようです。それらの点を考えると、住民が臨時隔離所へ移送されるまでは焼却のことは住民に知らされていなかったか、まだ決まっておらず、「建物を壊さないと完全な消毒や鼠駆除ができないから」という程度の移住の説明しかなされなかったのかもしれません。 <臨時隔離所の建設と収容者の移送>■新しい臨時隔離所の建設地に決まったのは、かつての神奈川砲台跡、つまり幕末に砲台が造られた神奈川台場だった。ここは周囲が海で、陸地につながっているのは北側の1本の道路だけだった。消毒設備のあった長浜消毒所や海岸通5丁目20番地とは海面を使って交通でき、船で住民を移動させれば、他の横浜市民に不安を覚えさせることなく隔離の目的を達することができた。 ■神奈川県ではさっそく台場を所管する大蔵・陸軍両省と交渉して、10 月 10 日に借用の承諾を得ると、12 日に各種の職工百数十人を使って建設工事に着手し、昼夜兼行でわずか3日後の 15 日には板葺き平屋9棟(128 室)の建物と浴場4棟、便所8棟、事務所1棟からなる収容施設がすべて完成した。(このあたりの詳細な日時は、手元にある資料でもさまざまで、図書館を利用できない現時点では確認できません。同じ「神奈川県ペスト流行史」の中でも工事の予算案が県議会に提出されて即日可決、起工されたのが 13 日とされている個所があったり、「横浜近代史総合年表」によると、横浜貿易新聞では隔離所の竣工を 14 日と報じているようです。いずれにしても、2〜3日というきわめて短期間に隔離所が建設されたことは確かなようです)。 ■臨時隔離所に収容される遮断区域内の住民に対しては、10 月 14 日にその総代たちを神奈川県警察部に招集して隔離所への移送が通告された。隔離所完成の翌日 16 日には、第1陣の 344 人がそれぞれの荷物を持って海岸通の綿花倉庫桟橋から移送船に乗船した。彼らには乗船前に「移送心得書」と「消毒心得書」が配布された。「神奈川県ペスト流行史」にその元となった内容が記述されているが、乗船の順番から携行品に関する指示、隔離所の各室の割り当て、生活上の様々な取り決め事項などが細々と記されている。短い期間に、ここまで周到な準備ができたのは驚くほどの手際の良さである。 ■計画では、移送船は海岸通の桟橋を出た後、いったん南下してまず長浜消毒所へ向い、そこで遮断民とその荷物をすべて消毒してから北上し、神奈川砲台跡の隔離所に着岸した。船による移送作業は毎日2回、3日かけて行われ、10 月 19 日に完了した。疾病などの理由で乗船できない 60 名の住民は扇町消毒所で消毒を受け、馬車で陸路を移送された。 <臨時隔離所での生活>■神奈川砲台跡の隔離所は神奈川県検疫委員出張所と名付けられた。幕末の台場建設当時とほとんど変わっていなかった地形が板塀によって5区に区画され、各区の間の往来は木戸を設けて制限された。全部で9棟の建物のうち、7棟は家族持ち用として各室が6畳から8場の広さで、そこに1〜2家族を収容した。残り2棟は独身者用で1室 22 畳敷きの大広間となっており、1室につき 13 名から 33 名を収容できた。 ■隔離所の運営に当たったのは、所長のほか4人の職員と若干名の傭人、医師5名、薬剤師4名、警部3名以下の警察官 20 名あまりである。各室には、入居者心得として、室内での喧嘩口論と賭博類の禁止、昼間はときどき室外で運動をすること、廊下を下駄履きで歩かないこと、決められた区域外に出ない、男女隔日の入浴、掃除と換気の励行などを謳った張り紙が掲示された。三度の食事は公費で給食され、午前と午後の1日2回、医師による健康診断が行われた。 ■警察官達は昼夜三交代で隔離所の警戒にあたったが、それは主に大部屋に収容された独身者の逃走に備えるものだった。各区域の内部での行き来は自由であったため、各室間を往来する者が多かった。また、面会は緊急かつ必要な場合以外は許可しないという方針だったが、金銭貸借や商業取引上の用務で面会を求める者や物品の寄贈者、女性の慰問者など、様々な口実を設けて来所する人々が相次いだ。面会が許可されると雑談が多事に渡り、面会場の各所にたむろして係員の制止も容易でなく、交通遮断の目的に反するおそれがあった。しかし数少ない係員が取り次ぎに忙殺されると、至急を要する面会者に対して迅速に用務を済まさせることもできなくなるため、ついには面会場内に境界を設けて一定の距離を置いて直に対面させる方法に改め、取り次ぎ役として各区ごとに世話役が面会場に出張ることになった。 ■隔離所の健康診断では、10 月 24 日、収容中の 20 代の男性がペストを発病したことがわかった。患者は直ちに万治病院へ送られ、同室者全員は消毒のうえ別室に移され、翌 25 日と 26 日にかけて、その棟全体の消毒が行われた。また棟内の収容者 166 名とその寝具、衣類等が扇町消毒所に送られ、消毒作業の後、再び隔離所に戻された。しかし、隔離所内でペスト患者が発生したことは収容者たちの恐怖心を惹起し、当該の棟から2名の逃走者が出るという事件に発展した。警察の懸命な捜索で 28 日までに2人とも発見され、隔離所に復帰させられたが、10 月 30 日に収容者の中からさらに1人のペスト患者が見つかり、万治病院に送られた。結果的には、その 56 歳の男性がこのときの横浜でのペスト流行における最後の患者となった。 <隔離者からの抵抗>■神奈川県が神奈川砲台跡の隔離所の設置を進める一方で、横浜市の臨時市議会には海岸通5丁目 20 番地の家屋の取り壊しと焼却を実行するための追加予算案が提出された。それは、現地にある東洋汽船会社や正金銀行の倉庫など、堅牢な建物かつペスト菌の汚染のおそれがないか、たとえそのおそれがあっても十分な消毒ができるものを除く 1500 坪あまりの家屋を取り壊して焼き払うという内容だった。予算案は直ちに可決され、当局側は家主との交渉に着手したが、ここで家主たちの強烈な反発を受け、実行が容易でないこと明らかになった。 ■その理由として「神奈川県ペスト流行史」には、家主の要求が過大で、かつ世論からの非難・攻撃も甚だしく、新聞紙上で勅令違反を「絶叫」する声もあったとされている。どういう点で勅令違反なのか、当時の新聞を調べていないので分からないが、現在の県警本部長にあたる警察幹部が隔離所へ足を運んでも打開の道が見出せなかったために、状況を政府に上申し、いざというときは緊急勅令で反対を押し切るための準備までなされたという。しかし、ペストの拡散が刻々憂慮される中で、結局、家を焼かれる住民を救済するための義捐金を募集することと、市当局が提示した家屋買収額と家主側が提示した額の中間金額を取るような形で 10 月 27 日に妥協が成立し、10 月 30 日から海岸通5丁目の焼却作業が開始されることになった。 <海岸通での焼き払い作業>■焼却作業は昼間のみ行うこととし、まず建物をすべて取り壊した後、点火する段取りだった。該当する海岸通5丁目20番地の周囲には警察官と市内の消防隊が配置され、万一の飛び火の警戒に当たった。遮断地の周囲には、初回の遮断時に使われた応急の木塀に代わって亜鉛板の塀を巡らし、海に接する護岸の石垣の隙間は、ネズミが逃げ出さないよう、すべてセメントやモルタルで閉塞された。 ■「横浜疫病史」に転載されている新聞記事によると、10 月 30 日、最初の患者だった少女の家から最も離れた一画の 30 戸が午前中に伊勢佐木町消防組によって取り壊され、午後2時、火が放たれた。火は神奈川台の方から吹き下ろす風に煽られてすぐに火の手を上げ、次第に渦を巻くように火勢を増した。一時は南側の堀割を超えて対岸にある同じ区画内の予定外の家の軒先にも燃え移ったが、待機していた消防手が海水をかけて事なきを得た。こうした光景を見ようと、地方裁判所のあたりには往来がとどこおるほどの人が集まったという。 ■当初 、焼き払い作業は11 月2日までの4日間で完了するはずだったが、どのような理由かは不明だが2日に一度中断され、さらに2度の予定期間の変更を経て 11 月9日に完了した。ただし、この件に関しては 11 月 24 日付けで「焼却未遂の1棟を 11 月 26 日に焼却する旨、市から届け出があった」という県の告示が「神奈川県ペスト流行史」に残されている。「横浜疫病史」によれば、市は最後まで買収交渉が成立しなかった3軒について、やむなく焼却せずに「大消毒」にとどめたという。焼却作業が予定通りに行われなかったのには、そうした事情があったのかもしれない。 ■こうして、焼却戸数 187 戸、倉庫・納屋 16 棟に対する未曾有の焼き払いは終了した。神奈川砲台跡の隔離所は5棟が市役所へ貸与され、行き先を失った人々の滞留が引き続き許可されたが、収容されていた人々の大半は10 月29 日に退所し、「神奈川県検疫委員出張所」は 11 月 11 日を以て閉鎖された。 <流行の終息?とその後>■県と市では、その後も関係機関にネズミ駆除に関する様々な指示を行い、一般市民に対しても死んだネズミを見つけたら市役所や町村役場に届けるよう呼び掛けた。その後患者の発生を見なかったことから、12 月7日、海岸通5丁目の交通遮断を解除した。これにより、横浜での第1回のペスト流行は患者総数8名、うち死亡5名、疑似患者1名でひとまず終息したと見なされた。 ■この第1回のペスト流行は、患者発生地周辺で見つかった死んだネズミや横浜市内での過去の急性死亡者、入港した船舶の寄港地や積み荷などの調査から、この年の6月中旬から下旬にインド綿または中国綿を積んで横浜に入港した3隻の貨物船のいずれか、またはそれらの船舶によって数次にわたってペスト菌またはペスト・ネズミが持ち込まれた可能性が高いと考えられたが、明確な経路は判明していない。 ■しかし、それから半年後の明治 36(1903)年5月には、西戸部町を皮切りに全市にわたって 49 名という大量のペスト患者が発生する第2回目の大流行が起きた。「横浜疫病史」には、このときにも西戸部町と戸部町で家屋の焼却が行われたと書かれているが、出典が明らかでなく、明治 43 年に書かれた「神奈川県ペスト流行史」にもそれを明記した記録はない。また、その後も、こうした焼き払いが行われることはなかった。1回目での住民との交渉に相当懲りていたのかもしれない。 ■なお、横浜市におけるペストの流行は、上に述べた明治 35(1902)年と明治 36(1903)年のほか、明治 40(1907)年、明治 42(1906)年、大正 2〜3(1913〜1914)年、そして大正 15(1926)年の都合6回であり、1926 年の万治病院での患者4名(うち死者3名)を最後にペストは発生していない。日本全国でも昭和5年以降、ペストの発生はない。(2020 年4月23日記) ----- |
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