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番外コラム

アメリカ海軍横浜病院が倒壊した日

■2011年3月の東日本大震災でアメリカ海軍は日本に対する災害救援事業のひとつとして「トモダチ作戦」を実施しました。これに因んでアメリカ海軍の医療部は、1923年の関東大震災で崩壊し、廃院となったアメリカ海軍横浜病院の古い記録を掘り起こし、震災当日のこの病院での出来事をGrobという定期刊行物に掲載しました。以下は、その記事を翻訳したものです。

■アメリカ海軍横浜病院は、現在横浜・山手にある「港の見える丘公園・拡張部」のかつて横浜税関宿舎が存在した場所に、明治5(1872)年から存在していました。2020〜2021年に横浜市による埋蔵文化財発掘調査が行われ、遺構は埋め戻され、いまも地中に眠っています。発掘調査記録は「山手アメリカ海軍病院遺跡」として横浜市立図書館に収められています。(2023/10/04 ふるかべ記)

■原典:"THE GROG - A Journal of Navy Medical History and Culture, Spring 2011"
https://archive.org/details/TheGrog-Vol6Number2-Spring2011/mode/2up

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アメリカ海軍病院が倒壊した日

アメリカ海軍横浜病院と1923年の関東大震災

 日本が自ら課した鎖国政策が米国との通商条約によって破棄されてから約20年後、東京湾に面した日本の各港は外国貿易の交易場として開花し、活況を呈していた。その最たる港は横浜だった。1872年までには、このかつての漁村を訪れた人々に日本初の鉄道と、米国、中国、およびヨーロッパの主要な港に向かう蒸気船航路、そして外国人居留地が提供され、そこに米国海軍初の極東における常設病院が設けられた。アメリカ海軍横浜病院(Naval Hospital Yokohama)は、1872年5月16日、市の中心を見おろす高さ100フィートの崖(ブラフ)の上に設立された。その主な目的は、アジア艦隊に所属する兵員に医療支援を提供することだった。この病院の存続期間中、職員は深刻なコレラやインフルエンザの蔓延、義和団の乱における派遣軍の傷病兵の大量発生、米西戦争での死傷者、そして常に存在する破滅的な地震の脅威に立ち向かった。

 運命の荒波による長年の労苦は、赤煉瓦でできたコロニアル様式の格式ある二階建ての病院に重くのしかかっていた。また、1906年までには、この病院はアジアで最高の海軍病院としての地位を、新たにフィリピンに建設された海軍カニャンカオ病院に譲っていた。世紀の変わり目には、まだ100床を備えた病院として格付けされていたが、回復期治療の施設として広く認識されていた。患者数もこの事実を反映し、1922年まで一度に5床を超えるベッドが使用されたことは無く、アメリカの軍艦は1年以上横浜港に入港していなかった。あらゆる点で、アメリカ海軍横浜病院は長い年月、用済みとなったままであり、帳簿から消されるのを待っていた。それが運命であるかのように、母なる自然は、この病院が時宜を得た終末を迎えるのに手を貸したのだった。

 1923年9月1日の朝は美しかった。看護主任のエディス・リンクィストは 1923年4月以来、海軍横浜病院に務めていたが、この日の朝焼けは分厚い雲を深いバラ色に染めていたと語っている。彼女は、湾上の白帆の漁船に完璧な背景だと思った。2時間後、突然の雨と突風により、穏やかな朝という思いは瞬時に洗い流されてしまった。正午の数分前、エディスは嵐の様子を見に二階デッキの窓に向かって歩いていた。

 病院の二階デッキの廊下を降りたところにある病棟では、薬剤師のローレンス・ゼムシュがベッドに身じろぎもせずに横たわり、傍らに妻のグラディスが座っていた。ゼムシュは、ある海兵隊将校の遺体をパラオで引き取って火葬するという特別な任務の直後、「神経衰弱」になって最近病院に戻ってきていた。彼は、この病院のただひとりの患者であった。

 一階では、下士官のチェスター・ベルトとクロード・スミスが正面玄関のあたりをうろついていた。二人は、その週にこの繁華な港町で体験した面白おかしい出来事についての記憶がまだ鮮やかで、その冒険譚に話しを弾ませていた。当時、彼らを含む8人の衛生隊員が、この病院に配備されており、一人を除く全員が病院内にいた。ベルトとスミスの興奮を抑えた囁き声は、その瞬間の静寂を際立たせていた。

 病院の玄関扉の静かにきしむ音は、医長のユリース・ウェブによく似合っていた。この海軍を退役して22年のウェブ博士は1922年6月に横浜に赴任し、病院長と会計責任者を務めており、当然ながら病院の経営と運営の任にあたっていた。昼食時間が近づいてきたとき、ウェブ院長が院長室で書類の山と格闘していたであろうことにほとんど疑問はない。

 町では、一陣の風が湾を吹き渡り、過ぎ去った嵐によって先程まで濡れていた街路を次第に乾かしていった。行商人や商店主たちは、水たまりのできた通りに戻って、絹や竹、茶などの製品を売る準備を始めた。売り買いの駆け引きの声は、ときおり横浜を出港してゆく蒸気船の汽笛の轟音によって中断された。

 コンクリートの岸壁では、海軍看護婦のネリー・トルサートと三等衛生兵曹のセドリック・フォスターがカナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・オーストラリアで出発する友人を見送っていた。トルサートもフォスターも、1923年9月1日がとりわけ特別な日になろうとは思ってもみなかった。

 話を戻して病院では、時計が11時58分を刻んでいた。数秒のうちに、大地が怒った海のように持ち上がり、轟音と共にあちこちで物が崩壊する音がした。ガラスの割れる音や遠くからの悲鳴が大混乱の中から伝わってきた。兵営、食堂、石炭置場、すべてが粉々に崩れて瓦礫の山となった。外では、目撃者の証言によると、ウェブ院長の夫人は近くの病院長の宿舎から逃れて病院墓地に避難しようとしていた。まだトルサートとフォスターがいたコンクリートの岸壁は、足元が崩落し、二人とも波の逆立つ湾の中に突き落とされた。山手の丘では、病院の建物全体が粗末な造りの映画のセットのように倒潰した。これがほんのいま起こったことだと信じるのは難しかった。たった4分間のうちに、横浜のすべてがマグニチュード7.9の地震によって廃墟と化したのだった。

 リンクィスト看護婦長は、落ちてきたレンガの堆積から自力で脱出した人々の一人だった。驚いたことに彼女は軽い打撲傷を負っただけだった。周りを見渡すと、視界に入るすべての建物が消え失せていた。2人の衛生隊員が被害を調べているのが見え、埋まって身体の見えない人々からの助けを呼ぶ叫び声が聞こえた。彼女は後に、この地震が起きた最初の瞬間を思い出して次のように語っている。「まったく何の前触れも無く、私がいたアメリカ海軍横浜病院だけが持ち上がって激しく揺さぶられるような感じがしました。そして、かろうじて認識できるくらいの一瞬の静止期間の後、再び建物が新たな激しさで揺れました。頻繁な地震には慣れていましたが、このときのものはまったく異なっており、だれかに外へ出ろと言われているように感じました。そのとき私は二階に居て、建物の中央階段までたどり着く方法はありませんでした。というのは、すでに壁が崩れ落ち始めていたからです。私は急いで小さなバルコニーへ逃げ出しました。ドアから外へ足を踏み出したとき、手摺りが崩れ、私は床と一緒に下へ落ちました。建物が壊れる轟音はすぐに忘れられるようなものではありません。私は病院の屋根が落ちてくるのを見、道路の向こうのイギリス海軍病院と角の劇場が倒れるのも目にしました。私は地面に投げ出されましたが、バルコニーの床が私の上にかぶさる形になり、落ちてくる瓦礫から私の身を守ってくれたのです」。

 下士官のベルトとスミス、一等衛生兵のキャリー・グルーム、一等衛生兵曹ノーマン・グロス、一等衛生兵曹C.E.ヨスト、および病院用務員のフジヤマは、それぞれ壊れた建物から自力で脱出でき、ほとんど直ちに捜索と救援活動を開始した。まもなく、彼らにリンクィスト看護婦とイトウという名の民間人の庭職人も加わった。すぐにもう一つの強い地震が起き、このグループは生存者の捜索を続行する前にあわてて地に伏した。彼らは同僚たちの名前を一人ひとり大声で呼んだ。「ローレンス! ろー・れんす!」 答えは無い。「アンソニー! あん・そ・にぃー!」応答なし。「ドクター・ウェブ! どく・たー・うぇぶ!」... 「こっちだ」倒潰した石積みと木材の下から、ユリース・ウェブが彼らの呼び掛けに弱々しい声で応えた。

 揺れが始まったとき、ウェブ院長は廊下を目指して走ったが、自室のドアまでしかたどり着けないうちに頭の上から病院の建物が崩れ落ちてきて、地下室まで運ばれてしまった。気が付くと骨盤から腹部にかけて4×6の木材の梁に挟まれて、身動きが取れなかった。両脚は大量のレンガと石積みの中に埋まっていた。まもなく、目に見えない救助隊が彼の名前を呼んでいる取り乱した声が聞こえた。庭職人のイトウはウェブ院長の左膝にのしかかっていた木材をのこぎりで切り、下士官達がウェブ院長を安全なところへ引きずり出した。

 他の人々の捜索は、それほど成功しなかった。ローレンスとグラディスのゼムシュ夫妻、三等衛生兵曹のポール・キャノンと同じく三等衛生兵曹のアントニオ・イングロリア、および民間人従業員のタカギ(コック)とナカハラ(用務員)、シバヤマ(洗濯係)、それとウキさん(メイド)は発見できず、彼らは全員圧死したと思われた。横浜市内では火災が多発し、時速60マイル(約96.56km)の強風によって急速に広がりつつあった。後にウェブは語っている。「道路は逃がれようと悲鳴を上げる大量の避難民でいっぱいだった。強風が吹き、市全体が燃えており、空気は煙と灰に満ち、道の向こうのイギリス海軍病院は炎を上げていた」。そのような状況で、生き残った病院職員たちは3時間にわたって捜索を行い、残骸の山となったアメリカ海軍横浜病院に火が回るに至って作業を中止した。

 岸壁が崩壊した現場では、下士官のフォスターが看護婦ネリー・トルサートまで泳ぎ着き、安全な場所に移動するのを手伝った。彼女の説明によると、「私は泳げなかったので、溺れるか押しつぶされて死んでいたはずでしたが、F(フォスター)衛生兵曹が助けに来てくれました」。「湾のその区域は、必死に浮いていようとする人々のスープと化していました」。 フォスターとトルサートは、太平洋汽船のタラップとして使われていた階段までなんとかたどり着いた。トルサートは、踏み板の上によじ登ったとき、初めて地震後の横浜を見た。

「町は、見渡す限り廃墟でした。グランドホテルは大きな瓦礫の山で、火が付いて午後中ずっと燃えていました。 私達の周りでは石油タンクやガス・タンク、弾薬の爆発が午後ずっと続いており、木材を積んだ艀船が炎上して私達の周りに浮かんでいるのを一度に6隻まで数えることができました。鳥は血の気が失せて途方に暮れているように見え、太陽は火の玉のようで、もう私達の誰にも未来がないように思えました」。

 山手では、炎から逃れるとしたら、いま以外に望みがないことが明白になった。逃れる道は1つしかなく、燃えているイギリス海軍病院の敷地を通り抜けて崖の側面を降りることだった。リンクィストの記憶では「みんな逃げるのに夢中で個人の持ち物を身に付けていく余裕もなかったので、妨げになるものはありませんでした。2人の衛生隊員が指揮官を補佐し、他の2人がケガを負った衛生隊員[ヨスト]を介助しました。私達が崖の端まで行く間に火は非常に迫ってきて、空気が煙と灰だらけだったので、目がとても痛くなりました」。

 飛んでくる灰は逃げる海軍病院の一団の上から落ちてきて、彼らの衣服に焼けこげの穴を開けた。後のウェブ院長の報告によると、「われわれはロープにつかまり、草の根っこや灌木にしがみつき、指先を土に突っ込み、すべったり転げたりしながら波打ち際の埋立地まで崖を降りた」。 彼らがあたりを見回したとき、何人もの男女が荒れ狂う炎から逃れるために海の中へ飛び込むのが見えた。港内で大混乱に陥った船のうちには、エンプレス・オブ・オーストラリアも含まれていたが、それらの船から岸に向けてボートが繰り出され、海面や海岸にいる人々を救出した。

 午後6時、看護婦のトルサートと下士官のフォスターは、彼らが午前中に別れを告げたまさにその船へ日本人のモーターボートによって移送された。彼らは海軍病院の同僚達がどこにいるかをまだ知らなかった。船に乗り込んできた同じ避難民たちから、病院の職員は全員地震で死んだと聞かされて、前途を悲観した。午後7時30分、海軍病院からの生存者がエンプレス号に到着したとき、恐ろしい噂はようやく解消された。

 9月5日水曜日の朝、最初のアメリカ海軍の船が横浜に到着した。そのアメリカ海軍の軍艦ヒューロンに、まもなく4隻が加わった。合計で21隻の艦船が日本に来航し、災害にうちひしがれた人々に対して必要な食料、衣料、医薬品が提供され、その他の様々な支援活動が行われた。

 翌週、復興作業を指揮することになった日本の内務大臣、後藤新平は、政府として被災地に劇場や映画館を建設する予定であることを発表した。それは「この冬、人々に無料で娯楽を提供することで、地震から気持ちをそらし、単調な生活を慰める手段」だった。

 その後数週間のうちに、日本政府はこの地震とそれに起因する津波と火災による死者・行方不明者数の集計を開始し、推定で14万人を超える人が死亡したことが判った。死者の中には、アメリカ海軍横浜病院に赴任していた8人が含まれていた。薬剤師のローレンスとグラディスのゼムシュ夫妻、 三等衛生兵曹のポール・キャノン、同じく三等衛生兵曹のアントニオ・イングロリア、民間人従業員のタカギ、ナカハラ、シバヤマ、およびウキさんである。彼らが勤務していた病院は消滅したが、帳簿上では1924年3月10日に廃院となるまで存続した。

 26年後、アメリカ海軍は日本の関東地方に新しい病院を開いた。そのアメリカ海軍横須賀病院は、当初、第7艦隊に所属する兵員と朝鮮戦争による犠牲者に医療支援を提供するために設立されたものである。現在その施設は、かつての大日本帝国の海軍病院と同じ場所にある。日本の海軍病院が最初に開設されたのは1875年だが、この病院も運命の日の1923年9月1日、アメリカ海軍横浜病院を破壊したのと同じ地震によって跡形なく失われた。(Andre B. Sobocinski)

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薬剤師ゼムシュのミステリー

 1923年7月5日、薬剤師のローレンス・ゼムシュは職務としてカロリン諸島のパラオへ派遣された。アメリカ海兵隊のアール・ハンコック・エリス中佐の遺体を火葬し、遺品を収集するためだった。

 ゼムシュは8月14日にアメリカ海軍横浜病院に遺骨を携えて帰国したが、「健康状態が非常に悪かった」。東京の大使館付き海軍武官からの報告によると、ゼムシュの「会話は支離滅裂で、歩く足元もおぼつかず、極度に神経質な状態だった。はっきりした理由もなく急に泣き出すかと思えば、自殺を口にしたりした」。 医長であったユリース・ウェブは、ゼムシュの状態が日射病か麻薬や睡眠薬によるものか、あるいは「神経が張りつめた下での精神不安定」によるものと考えた。ウェブが海軍武官に宛てた報告によると、ゼムシュの信じるところではエリスの死は自然ではなく、日本人達はエリスがスパイであると知っており、彼は南洋にいる間、厳重に監視されていた。

 ライマン A. コットン海軍大佐は1923年8月30日、海軍諜報部に次のように報告している。「悪い想像がどの程度ゼムシュ氏の状態に起因しているのかは、もちろん判らない。今後の面談で、もっとはっきりしたことが判ると期待される」。 しかし、ゼムシュが再び面談を受けることはなく、彼のパラオでの発見の完全な報告書も作成されることはなかった。1923年9月1日、薬剤師ローレンス・ゼムシュは、アメリカ海軍横浜病院で快方へ向かっているときに、病院が関東大震災で倒壊し、死亡したのである。

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