M・マーテン邸跡


(2003/Jan)

(2005/Sep)
北方小学校の東側を通る静かな裏道に左のようなブラフ積みを見つけました。北方小学校は私の母校ですが、こちら側ではあまり遊んだことがありません。ただ、旧校舎(大正15年に造られました)の三階から、そこまで届くような高い石垣を見た記憶があります。その記憶をたどって足を運びましたが、ここではないようです。

この左側は大きく落ち込んで北方小学校の校舎と校庭になっています。昔は「天沼」という溜池があったところです。最初はその護岸の名残りかと思いました。しかし、昔の地図を調べると、ここは関東大震災の前と後で地形が大きく異なっており、震災前に、ここにそのような壁があった形跡は見られませんでした。
さらに調べると、ここは、震災前にマーシャル・マーテンという人物の家の敷地内でした。震災後にその一部をえぐり取るようにして、山手から下ってくる道を真っ直ぐに整えると同時に、震災後に移転してきた北方小学校の校舎用地を造ったようです。右の写真は北方小学校の南東側の門から校舎と南坂方面を見たところ。震災前の地図によると、このあたりがマーテン邸の南側の境で、ちょうどこの視線の方向へ下る坂があり、ビヤ坂、諏訪町へ抜けていました。この木(クスノキ?)は50年前から見覚えがあります。旧校舎ができたときに植えられたもののようです。

(2004/Apr)

『横浜市復興会誌』
(横浜市中央図書館所蔵)より
マーシャル・マーテン(C.K. Marshall Martin: 1862-1949)は、関東大震災後の横浜の復興に尽力した英国人貿易商です。少年期に父に連れられて来日し、主に石炭の輸入に携わるかたわら、新たに横浜にやってくる外国人に日本語を教えたり、裁判所の通訳を引き受けたりと、社会活動にも貢献しました。特に、震災後は、居留外国人が持つ山下町の永代借地権を日本に返還するために、報酬も取らずに借地権者の説得に世界中を駆け回ったそうです。横浜開港百年祭では、ヘボン、パーマー(横浜の水道と築港の功労者)と同列に顕彰されています。「マーテン」は今風に綴るなら「マーティン」ですが、ヘボンさんと同じく、敬意を表して地元の呼び名を使わせてもらいます。なお、マーテンについては、『横浜山手・日本にあった外国』(鳥居民著・草思社刊)に詳しく書かれています。また、震災当日、たまたまフランス領事館でその崩壊を目の当たりにし、フランス領事の最期を見取ったマーテンの手記が『横浜市震災誌』に載っています。
マーテン邸は震災で「すっかり潰ぶれて地面と平」になり、その後、屋敷は再建されなかったようです。マーテンは海外との行き来が増えたせいか横浜にあってもホテル住まいを続けたといいます。震災後の横浜の区画整理に心血を注いだ彼のことなので、自分の屋敷跡の一部を、むしろ進んで公道や小学校用地に提供したのではないでしょうか。右の写真はマーテン邸の北側で見かけた、これもオーソドックスなブラフ積みです。震災の前後どちらのものかはわかりません。

(2003/Apr)
これはマーテン邸跡ではなく、その南裏からの眺望です。低いレトロな感じのコンクリート壁が残っています。昔は、左側の木々の間に、マンションではなく、遠く本牧の海が見えたに違いありません。ここに立つと、なぜか昔の世界に引き込まれてゆくような感じを受けます。なお、これと似た四角い窓のある壁は、鷺山にも残っています。昭和十年前後の「におい」を感じますが、それを実証する根拠はありません。
(2005 年 9 月記、2011 年 1 月補記)
 



Copyright (c)2005,2011 fryhsuzk. All rights and wrongs reserved.