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震災直後の谷戸坂

camphill

「View from Camphill」

■これは、2008年に英国人の収集家から他の1枚とともに入手した震災写真です。裏面にタイプ打ちで「View from Camphill」(キャンプヒルからの光景)と記されており、関東大震災直後のキャンプヒル、つまり幕末から明治初期にかけて英国軍の駐屯地だった谷戸坂上から北側に向かって、坂下の堀川と横浜港を写したものです。これと同じ写真が、2010年に開催された横浜開港資料館の企画展「横浜山手コスモポリタンたちの1世紀」に展示されたことから、関東大震災当時、横浜・磯子にあった外資系ボイラー製造会社「Zenma Works Ltd.(禅馬鉄工所)」の社員、松田理吉さんという人物が撮影した写真であることがわかりました。

残骸はかつての谷戸坂商店街

■震災前、この一帯には右の絵葉書写真のような谷戸坂の商店街が軒を連ねていました。これらの店舗は特に何の変哲もないように見えますが、実際は、表からは1階でも裏側から見ると2〜3階建てという店舗兼住宅が坂に沿って段々畑のように並んでいたといいます。したがって、上の写真で焼け野原が平坦地に見えるのは建物が焼失して目印がなくなったための錯覚で、坂とは見た目以上の高低差があります。
震災前

谷戸坂の巨大擁壁

■上に示したどちらの画像にも、左端に《非常に高い崖》(←マウス・カーソルを置いて確認)が写っています。その下部は最も高いところで 20 段ほどの石積み擁壁です。こうした擁壁の1段の高さは8寸から1尺(約24cm〜30cm)なので、石積みの部分だけで約5〜6メートルになり、その上の地肌も含めると優に10メートルを超える山手有数の高さだったはずです。この崖下では人力車が客待ちをしていたりして、谷戸坂を特徴付ける景色のひとつでしたが、震災後、いつの頃か石積みが解体され、現在は大きなマンション(←クリックで表示)に姿を変えています。また、その基礎部分をくりぬいて関東大震災の犠牲者11人を悼む碑(←クリックで表示)が建てられています。

垣間見えるブラフ積み

■写真中央の倒れかけた看板のようなもののあたりにも石積みが見られます。拡大してみましょう。分かりやすくするため、コントラストを強くしてあります。

menonthehill
■左端の男性の視線の先あたりに、右の窪地へ下る道の土台だった擁壁の残滓が見えます。ここは現在の千代紙店がある窪地へつながる道と思われます。この部分の石積みは、いまでは目にすることはできませんが、このあたりには、かつてのブラフ積み擁壁の「段々畑」を偲ばせる遺構(←クリックで表示)がまだ姿を残しています。

■男性の背後に見える残骸は、明治初年以来、この震災をはさんで実に平成の時代まで代々、製氷工場などがあった一角です。製氷工場跡は現在(2014年)では結婚式場になっていますが、震災時の遺構は、敷地内にまだ残されていると思われます。結婚式場になる前の姿は「谷戸坂 栄枯の面影」で紹介しています。

瓦礫の中から

■焼け跡から、住民の生活が感じられるものを探してみました。

■右の写真で、左下に壊れた自転車が写っています(黄色の楕円)。その右上に2つ、丸い鉢の上部のようなものが見えます(ピンクの楕円)。小さい方はミシンのハンドルのようにも見えるのですが、勝手な思い込みかもしれません。ほかは何とも判断のしようがない瓦礫ばかりです。

debris
gaishi

■坂道の方には、もう少しはっきりしたものが写っています。左の写真で白い物体がいくつかまとまって落ちていますが、何だかわかりますか?

■答えは碍子(がいし)。電柱の横木に付いているもので、よく見ると電柱ごと倒れたようで、横木や電柱の先端も見えます。

■このように1本の横木に多数の碍子が付いているのは電話線用の電柱です。

■冒頭に示した写真では健全な状態の電話用電柱が写っていないので、震災画像のコーナーの「山手・谷戸坂からの光景」の写真から、その部分を右に切り取ってみました。これらの電柱は谷戸坂では道路の海側(北東方向)に並んでいました。

■一方、道路の山側(南西方向)の電柱はもっとあっさりしていて、下の写真のように、変圧器(黄色の円)が載っていることから電力(電灯線)用の電柱であることがわかります。この電柱は先ほどの男性の後ろに写っている電柱です。

pwrpole
telepole

電話用の電柱

電柱も情報源

■ともすれば見過ごしてしまう電柱ですが、明治20年代以降、電灯や電話の急速な発展・普及に伴ってさまざまに姿を変えています。このため、古い写真を解析する際に意外な情報源として役立ち、想像力をかき立ててくれます。例えば、震災前の谷戸坂をほぼ同じアングルから写した次の2つの画像を見てみましょう。右のモノクロ画像は、このページの始めの方でも示したもの、左は「谷戸坂 栄枯の面影」のページで示したものです。

■どちらの写真も 明治29年(1896年)完成の《フランス領事館》(←マウス・カーソルを置いて確認)の姿を写しているので、それ以降、大正12年(1923年)の震災までの約30年間に撮られたものであることがわかります。また、右の写真で巨大擁壁の手前に写っている《長大な電柱》など、《山側の電柱が左の写真には見られない》ことなどから左の写真の方が古いこともわかります。
震災前1
震災前2
■右の写真の《坂の両側の電柱を拡大》してみると、海側(画面右側)の電柱列に多数の碍子を載せた横木が写っており、典型的な電話線の電柱です。これに対し、山側(画面左側)の電柱は、その構造から電力用の電柱であることがわかります。
■電柱の構造という点では、《左の写真の海側の電柱》も、碍子の数がわずかで、電力電柱に似ています。しかし、変圧器を載せた電柱は見当たりません。また、もし電力柱だとすると、後から電話線路が開設されたことになり、その場合はなるべく既設の電力線路などを避けて開設される工事規定があったため、電話柱は山側に建てられたはずで、右の写真と矛盾します。さらに、詳しい資料は見つかりませんでしたが、官業の電信・電話と民間事業の電力が電柱を共用することは、少なくとも震災前はなかったようなので、左の写真の電柱はやはり電話線用と考えたほうが当たっているようです。
■ちなみに、横浜では電話事業も電力事業もほぼ同じ時期に開始されています。電気事業は明治23年10月に横浜共同電灯会社が関内と居留地を営業区域として給電を開始したのが始めとされていますが、左の画像から考える限り、明治30年頃までは、谷戸坂を経由した山手方面への電力供給路はなかったようです。

■一方、電話交換事業は明治23年12月に開始されましたが、開業からしばらくは加入者数が伸び悩みました。それが明治30年代からようやく増え始め、明治40年からは大幅に増加して明治末年に4200名、大正12年の関東大震災当時には1万名を超えていたと言います。そうした推移は、上の写真の電話用電柱からもうかがうことができます。これにより、左の写真の撮影時期は明治30〜35年頃、右の写真は明治40年以降というところまで絞り込むことができそうです。

■なお、電話開業当初の伸び悩みの原因のひとつに、当時の商家では、電話に加入するより、年季奉公の小僧を一人雇った方が木炭10俵分も安上がりで、しかも運送機関の発達していない当時としては、通信と運送を兼ねる小僧の方が重宝だったという、今では考えられないような原因もあったそうです。

海岸通りから港にかけて

■だいぶ横道にそれてしまいました。本題に戻って、最初の画像で中央右端の方にも大きなブラフ積み擁壁が見えるので、今度はそのあたりを拡大してみます。

grandhotel

(1)は、谷戸坂の「裏坂」というか、現在の「フランス山」の崖に沿ったブラフ積み擁壁です。火災によるものでしょうか、白く焼けたような跡や、黒くすすけた石も確認できます。現在の状況は「山手震災痕めぐり・第1番札所」でもご紹介しています。現在、この擁壁の末端はこの写真より少し長く継ぎ足されているように見えます。震災後か太平洋戦争後、あるいは近年の「フランス山」の整備段階でかなり手が加わっているのかもしれません。

(2)は、あまり明瞭には写っていませんが、倒壊したフランス領事館の瓦礫、(3)と(4)は堀川を挟んでその対岸にあったグランド・ホテルの煙突です。内務省横浜土木出張所の震災後の調査書によると、鋼板でできたこれらの煙突は、奇しくも松田理吉さんが勤めていた禅馬鉄工所で製造されたものです。1本(3)は倒れてひしゃげ(水色の線で示してあります)、もう1本(4)は壊れずに残りました(下部は手前のフランス領事館の残骸に隠れていて見えません)。

(5)は震災後の救援と警備にあたっていた日本海軍の駆逐艦と思われます。艦名までは判りませんが、2本の煙突などから、当時の最新型駆逐艦だった「樅」(もみ)型の1隻と思われます。この型の駆逐艦は9月30日以降に横浜の警備を任された連合艦隊第一水雷戦隊に配備されていました。その下には、割に大型のヨットが3隻写っています。O.M.プール『古き横浜の壊滅』のヨットによる脱出記が思い起こされます。この海面はヨット係留場があったフランス波止場の前になります。

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■次は最初の写真の左上方の俯瞰です。(6)は、海岸通り11番地のオリエンタル・パレス・ホテルの残骸、その上方に写っている大桟橋(7)には民間船舶が停泊しています。煙突の数などから、桟橋の両側に2隻ずつ、計4隻を確認できます。前記の駆逐艦も含め、震災直後の入出港記録などを丹念に調べれば、船名や、ひいてはこの写真の撮影日まで割り出せるはずですが、私の手には負えませんでした。

報 時 球

■それよりも私が興味を引かれたのは、左側、傾いた電柱と重なるようにして写っている(8)報時球(タイム・ボール)のマストです。報時球とは港内の船舶に対して航海に不可欠な正確な時刻を知らせる設備です。『神奈川県港務部要覧』(明治43年発行、横浜中央図書館所蔵)によると、明治33年に東波止場(フランス波止場)内に建設が開始され、数々のトラブルと改良工事を経て明治38年(1905年)6月から本格運用されていました。

報時球
■上記の『要覧』によると、報時球を吊るマストは「時報檣」(じほうしょう)と呼ばれ、上下2つの横木があります。通常、報時球は「下部横木」の上に置かれていて、正午約5分前に「上部横木」まで引き上げられ、正午ちょうどに東京天文台からの電気信号によって落下する仕組みでした。落下開始の瞬間が正午というわけです。マグニチュード 7.9 の大地震発生は午前11時58分なので、そのとき報時球は上部横木の位置で落下信号を待っていたことになります。

■左の拡大画像を見ると、たしかに3本の「横木」が写っています。黄色の矢印で示した2本の横木の間に時報球の球体があります。青い矢印で示した横木は(最初はこれが「下部横木」かと思いましたが)誤操作があったときにそれを知らせる旗を掲げる「球檣下桁」のようです。震災後の写真で報時球が「上部横木」の下に写っていれば、有名な、11時58分を指している大時計の下に呆然と立つ横浜駅長の写真にも匹敵するドラマチックな話になるのですが、私の知る限り、震災後の報時球の写真でその状態のものはありません。揺れで落ちたのでしょう。

■ただ、震災で時報檣が倒壊しなかったことは、ご覧のように確かです。また、報時球は震災後も廃止されたわけではありません。場所を大桟橋入口に移して再建され、少なくとも昭和7年頃までは横浜港に残っていました。

■最後に、ほぼ同じ地点の2014年10月現在の様子です。かつて海側にあった電話線は、現在では山側の電力用電柱に共架され、海側には補助的な細い電柱がわずかに残っているだけです。
(2011年12月に予告編として公開したものを 2014年10月全面更新)

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※なお、電柱については、以下の web サイトを参考にさせていただきました。
・Wikipedia「電柱」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%9F%B1
・松本圭司氏「電柱と電信柱は違うものだ」:http://portal.nifty.com/kiji/110927148299_1.htm
・北原聡氏「論文『近代日本における電信電話施設の道路占用』:http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_01_07.pdf
また、次の資料も電信の歴史を手際よくまとめてあるだけでなく、現場の雰囲気を伝えるエピソードもふんだんに交えてあり、読んで楽しめます。
・『横浜の電信百年』昭和45年発行、横浜電報局編
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