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山手震災痕めぐり

第6番札所

貝殻坂通りのブラフ積み震災痕

■外人墓地を出たら左の横浜地方気象台の方へ進みます。ここは震災時に米国海軍病院があったところです。2006 年に気象台の庁舎を建て替える際、震災で壊れた米国海軍病院の残骸が発掘されました。写真はその際に垣間見えた風景。

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■気象台前の道を進んで突き当たりにあるアメリカ山公園は 2009 年に造られたもの。この場所にあえて「アメリカ」の名を冠するほどの謂われはないようです。「フランス山公園」「イタリア山庭園」と続けてきた浅薄な観光行政の意向によるものでしょう。それよりも、ここは前に述べたホイーラー医師の家があったところです。「ホイーラー山」とでもした方がよほどスマートだったのにと思います。ホイーラーさんの死後、この土地の永代借地権は解消されましたが太平洋戦争後に米軍の接収地となり、昭和46年の返還以後は次の写真(2003 年撮影)のような遊休地になっていました。

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■アメリカ山公園には入らず、外人墓地に沿って見尻坂を下ります。下りきったあたりは最も古い墓域です。さらに外人墓地の外周を回ると、生麦事件の被害者リチャードソンの墓や万延元年(1860年)に本町通りで殺害された2人のオランダ人船長の墓(下の写真)が見えます。この三角柱の墓標は、建てられた当時のまま同じ場所に残っている数少ない遺跡の1つです。山手居留地ができる前からのものなので、いわば山手の道路元標のようなものです。それにしても誰がデザインしてどこで造ったのか、もし日本で造ったのなら、石工たちは初めて造るこの異様なモニュメントをどう思ったのでしょう。

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■余計なことばかり書きましたが、本題はさらに進んでブラフ積み擁壁を左へ曲がったところにあります。「山手・貝殻坂の震災痕?」でも紹介した次のようなブラフ積みです。

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■積み石が不自然に波打ち、亀裂が入った石も見られます。最初からこのような造り方をするわけはありません。後から何か大きな力が加わって崩れた跡を修復したに違いありません。それほどの崩れは、そうそう簡単には起きないはずです(ブラフ積みは結構強いのです。南坂のセント・ジョセフ跡のマンションはなぜか上物を建てた後に土台のブラフ積みを造り替えるという無茶なことをやりましたが、ほんの一部が崩れただけでした)。もう3歩進んで問題箇所の正面です。私はこのカーブにたまらなくロマンを感じます。

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■すぐ近くに住むご老体の話では、戦後引っ越してきたときには、すでにこのような状態だったそうです。ならば、ここは関東大震災で崩れて修復を施したところと考えてもおかしくありません。フランス山で見たような焼け焦げ?のある石も見られます。さらに3歩進むと、もう一度石垣が「折れて」います。

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■ちょうどこの後ろの一段高い墓地内に、もうひとつブラフ積みがありますが、そこには上から亀裂が走っています。次の写真の真ん中あたりに注目。

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■これが震災の跡であることを裏付けるような資料などは見当たりませんが、積極的に否定する材料が出てくるまでは独断でここを第6番札所とします。なお、見尻坂下からここまで歩いてきた道は厳密には「坂」にはなっていません。また、一般的に貝殻坂と言うと、この先の本当の坂になったあたりを指します。しかし、明治中期の地図では、この道筋全体に「貝殻坂」の名が付いています。これは町名のようなもので「貝殻坂通り」というような感覚なのでしょう。(2013/02 記)

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