山手震災痕めぐり第9番札所 |
橦木町のレンガ造り洋館跡
■山手本通りに出て右へ折れると道の反対側にカトリック山手教会が見えてきます。敷地内にあるマリア像も震災を生き延びた遺物のひとつ、というよりさらに歴史が古く、幕末にフランスから贈られたものだそうですが、それには寄らずに教会の先の脇道に入ります。ここは山手公園につながる公園坂で、ブラフ積み擁壁とブラフ溝がひと揃いで出迎えてくれます。さらにその先には、横浜市の「名木指定」を受けた大きなタブノキがあります。樹齢は推定四百年とされています。いまのところ、山手で最も古い「生き証人」です。
■タブノキのすぐ先に、右へ下っていく道があります。明治17年(1884年)に撞木町(しゅもくちょう)と命名された一画です。「撞木」とは鐘や鉦(しょう)を叩く丁字形の仏具で、ちょうどそれに似た丁字形の地形から付けられた名前なのでしょう。狭い道で、見過ごされてしまいそうなところですが、右手に(以前は左手にも)、ちょうどその町名が付けられた頃に築造記録が残っている古いブラフ積み擁壁が見られます。これは、その西の端にあるもの。2003年の撮影です。
■そしてこの向かい側に、山手で最も注目すべき「震災痕」が残っています。道より一段低い駐車場を囲んで、表面をモルタルで覆ったレンガ造りの建物の遺構が残っているのです。道が終わる角には、レンガが露出した壁の一部がありますが、よく見ると中から鉄筋が1本、顔をのぞかせています。
■レンガ造りの建物は明治13年(1880年)2月の横浜地震や明治24年(1891年)の濃尾地震で地震に対する脆弱性が認識され、鉄筋で補強されるようになったのは明治30年以降だといわれます。また関東大震災で大被害を出した後、レンガ造りはほとんど用いられなくなったそうです。
■この場所には、1883年(明治16年)から、ドイツ系の植物(百合根)貿易商社べーマー商会(L.Boehmer&Co.)がありました。この会社は1917年(大正6年)までたどることができますが、1923年の関東大震災時にはこの番地に住人はいません。日本とドイツが敵国同士となった第1次世界大戦(1914-1918年)の影響かもしれません。
■破壊の状況から、建物が壊れた原因は関東大震災か太平洋戦争の空襲と推察できますが、空襲の焼夷弾に、これほどの破壊力があるとは思えません。結局、消去法でこれは震災による破壊の跡と見て、第9番札所としました。本当に震災痕だとすれば、私の知る限り、山手でこれほど生々しく震災の爪痕を現在に残しているものは他にありません。
■金網のフェンス越しに、分銅型や桜模様の刻印レンガも散見されます。かつてはジェラール瓦の破片も見られました。市と土地所有者の間で勝手には取り壊さないという取り決めがあると聞いていますが、年々破壊が進んでいるのが心配です。(2013年3月記)
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