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山手・畑町の大ブラフ積み


「畑町ブラフ積み・上から見おろす」
(2005年2月撮影)

■これは、山手東部の丘の上から、千代崎町4丁目〜見晴(みはらし)トンネルの道へ一気に下る急坂に残っている大ブラフ積み擁壁です。このあたりは明治17年から32年まで畑町(はたちょう。「旗町」という表記もある)と呼ばれていました。明治15年(1882年)初夏に、この道を「修築」した記録が残っており、その当時のまま現存していると考えられています。

■記録によると、この道自体は明治6年に開鑿されましたが「道路添崖風雨等ノ為メ追々欠崩レ」たため、度重なる外国人居留民からの要請により、こうした本格的な擁壁工事が行われました。閑静な場所にひっそりと残っており、あたりの雰囲気も含めて、山手を代表するブラフ積みの1つと言えます。


■右はクローズ・アップです。ここは水抜きの穴に陶管は入っていないようです。ちなみに、陶管は神奈川県のお雇い外国人R.ブラントンが明治5年に愛知県・常滑の焼物師、鯉江家に作成を依頼したのが始まりとされ、明治10年以降は疫病対策も兼ねて都市の上下水道整備に盛んに使われるようになったと言われています。

「畑町ブラフ積み細部」
(2007年3月撮影)

「畑町ブラフ積み・下から見上げる」
(2005年2月撮影)


■坂の途中から見上げると長大な感じがよくわかります。毎年2〜3月頃に神奈川県の手によって崖の雑草取りが行われているようですが、その時期以外は雑草が覆い被さってなかなか全体像が見えません。尤も、それはここだけに限ったことではありませんが...。


■崖の最下部は、少し小振りの石で積まれています。積み方も上の方に比べてやや緊密な感じがします。もしかすると、ここは建造当初のそのままではなく、その後に崩れたりして積み直されたのかもしれません。しかし、正統派のブラフ積みスタイルには変わりありません。(2011/06記)

「畑町ブラフ積み最下部」
(2005年2月撮影)

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