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震災後・戦前期の伊勢佐木町

■本サイトは、横浜の中心部に残る 関東大震災以前 の「古いもの」探しを基本的なテーマにしていますが、ここでは、取材の過程で入手した昭和初期の伊勢佐木町界隈の写真3枚をご紹介します。

その1. 吉田橋付近のお祭り風景

松屋吉田橋店

■この写真は、 1932 年(昭和7年) に横浜を訪れたドイツ人旅行者が撮影したものとしてネット市場で売りに出されていた写真です。中央に写っている大きな赤レンガ風の建物は、昭和30年代以前の伊勢佐木町を知っている者には見覚えのある、吉田橋際の建物です。私は親から「昔は松屋デパートだった」と聞いたことがあります。その頃、松屋デパートと言えば伊勢佐木町通りを入った別の建物にあり、この重厚感のある建物も松屋だったというのは少し驚きでした。最上階の窓のあたりを拡大してみると、たしかに「 松屋 」と右から左へ書かれた文字と「松に鶴」のマークを確認できます。伊勢佐木町の松屋と区別して 松屋・吉田橋店 と呼ばれます。
松屋吉田橋店

■『中区史』によると、この建物が建てられたのは 関東大震災から7年後の1930(昭和5)年 です。震災時、ここには赤レンガ造りの伊勢佐木警察署が建っていましたが、地震により崩壊、続いて発生した大火災により、この近辺では多くの人々が命を落としました。火に追われた人々が川へ逃れようと押し寄せたと言います。

■このビルのすぐ左側をその 派大岡川 が流れており、写真の左端をよく見ると、川に架かる 《吉田橋の南詰めの親柱》 が写っています。右は、その拡大写真。

吉田橋 は開港期以来の横浜を代表する橋で、安政年間に架けられた仮橋に始まり、「 かねの橋 」と呼ばれた 1869(明治二)年の鉄橋の時代を経て、1911(明治44)年、鉄筋コンクリート橋として改築されました。1923(大正12)年の関東大震災にも耐えましたが、全市的な橋梁復興工事の一環として改装され、1928(昭和3)年、親柱がこの潜水服のような意匠になりました。

吉田橋親柱

■この親柱の石造部分は終戦直後の写真でも確認できますが、黒っぽく写っている街灯部分が残っているものはありません。戦時中の金属供出か戦災によって失われたようです。したがって、この写真が1930年から1945年までの間に撮られたものであることは確かです。1932年の撮影という触れ込みは信頼してよさそうです。

■ついでに、この赤レンガ風建物のその後の歴史を調べてみると、太平洋戦争中(1946-1945年)から戦後の接収期にかけては 日本海軍やアメリカ進駐軍の病院 として利用されていましたが、昭和30(1955)年の接収解除後は 三和銀行 に売却され、昭和46(1971)年の吉田橋廃川と派大岡川高速道路化計画に伴い、 昭和47(1972)年に撤去 されました。 私は、もっと早く、東京オリンピックを控えた昭和39(1964)年頃の国鉄(現JR)根岸線敷設工事で撤去されたものと長く勘違いをしていました。三和銀行の頃は、建物全体がもっと明るい色に塗り替えられていて、かなり印象が違っていたためでしょう。

■ちなみに、現在の JR根岸線・関内駅 の位置は、この親柱の右奥の方向になります。開港当初から1871(明治四)年まで、開港場への出入りを監視する関門が吉田橋に設けられていたことから、ここを境に港に向かっての一帯が「 関内 」と呼ばれていたという話は、よく語られますが、私個人としては「関内」という言葉を聞くようになったのは関内駅ができた後だったように思います。

■撮影者のいる場所は、写真右側にわずかに写っている建物から判別できます。この建物は、伊勢佐木町通りと 吉田町通り が交わる伊勢佐木町入口のシンボル的存在として現存する「 イセビル 」です。松屋・吉田橋店より3年早い 1927(昭和2)年 の建物で、それから90年以上の歳月を経て現在もなお現役の商業ビルとして使用されているのは驚くばかりです。

■上部に2つ、カタカナの「 」の字が見えますが、最上階の「ル」は現在も残っており(と言うより建物の外壁の一部であり)、右から横書きにした「イセビル」の「ル」の字です。現在、同じ位置から見上げてみると下の写真のような具合です。

現在のイセビル

イセビル

■もうひとつ、下の方の「 ルー 」は、 震災復興期の絵葉書 を見ると、イセビル自体が「キリンビール」の巨大な広告塔のようなものなので、右書きした『キリンビール』の最後の2文字と思われます。屋上にある温室のような構造物は、後からの増築部分のように思っていましたが、建設当初から「 展望レストラン 」として設計されていたものなのだそうです。

伊勢佐木町通り はこの写真でイセビルの先を右に入ったところになります。それにしては、鈴蘭型の街灯の位置が、伊勢佐木町の入口を飾るものとしては手前すぎるように見えます。そこで、この街灯をよく見ると、 《鈴蘭の葉にあたる場所に同心円状のマーク》 が隠れています。また、同じエンブレムが街灯下の 提灯 にも描かれています。

鈴蘭灯

提灯

■どうもこれらは、中に「 吉田 」という漢字やカタカナの「 」や「 」といった字が隠されているように見えます。とすると、この街灯は伊勢佐木町のものでなく、吉田町商店街の街灯なのでしょう。伊勢佐木町と直交して並んでいることからも、そのように推察できます。しかし、このマークは現在ではほとんど使われることがないようです。

■写真中央の山車のことが後まわしになりました。地元民でない私の推測ですが、このお祭りは 吉田新田 一帯の総鎮守である お三の宮(日枝神社) の祭りだと思われます。だとすると、撮影時期は 九月中旬 ということになります。山車の上の人形は鎧を着てウサギのような風貌をしていますが、桃太郎のバージョンのひとつでしょうか。お三の宮とウサギの桃太郎の関係は判りません。

《ビル壁面の時計》 を見ると、時刻は1時をわずかに回った昼下がり。ようやく関東大震災からの復興が成り、人々の表情にも明るさが戻った頃の雰囲気がうかがわれます。

山車

■しかし、このような平和な時期は長くは続かず、この写真からわずか5年後に日本は日中戦争から太平洋戦争へと突き進むことになります。その結果、この辺りは再び焼け野原となり、またも復興への苦しい道程をたどらなければならなくなります。写真に写っている丸刈りの少年たちは、健在なら既に九十歳前後の年齢に達しているはずですが、そうした厳しい時代を無事に生き抜くことができたのでしょうか。

人物


その2. 伊勢佐木町四丁目の街角で

伊勢佐木町四丁目

■左は(その1)と同じドイツ人旅行者が撮った一連の写真の1枚です。子供をおぶった二人の母親の立ち話が、よほど珍しく目に映ったのでしょう。時代や国を超えて、何を話しているのかが何となく想像できる微笑ましい写真です。

■ちょっと見づらいのですが、画面の中央を横切るように、しめ縄とそれから垂れた紙(「紙垂(しで)」というのだそうです)が写っています。(その1)の写真と同じ、1932年(昭和7年)9月の祭礼の日に写したものと推測できます。

■だとすると、時計店の看板に付いている時計が12時47分ぐらいを指しているので、(その1)の松屋・吉田橋店の写真より少し前に撮影された写真のようです。

看板

■撮影場所も(その1)の写真から伊勢佐木町ではないかと当たりを付けて昭和61年発行の 『中区わが街・中区地区沿革史』 に収録されている1940年(昭和15年)頃の伊勢佐木町記憶絵図で探すと、写真右端の「 たばこ 」店から「 織田時計店 」「 ヨシノヤ呉服店 」という店の並びが、関内方向から伊勢佐木町四丁目に進んですぐ右側の一画に見つかりました。撮影者は、ここから伊勢佐木町入口までの約600mを14分かけて歩いていた計算になります。Googleマップでは徒歩7分の距離と表示されるので、かなりゆっくりと、文字通りの「 イセブラ 」を楽しんでいたようです。

■丸に の「ヨシノヤ呉服店」は明治35年創業の「 芳野屋呉服店 」です。現在この場所に「ヨシノヤ呉服店」は残っていませんが、創業者の親族がマルカのマークを引き継いで、別の場所に異なる社名で呉服・寝具の卸会社を営んでいます。その Web ページによると、ヨシノヤ呉服店は中区福富町の本店のほか、市内に複数の店舗を持っていたようです。そういえば正面の壁の上方に切り文字で 《第二支店》 とあります。

荒井屋広告坂

■85年後の平成29年に同じ場所を写したものが下の写真です。「ヨシノヤ」があった跡地の一画には、奇しくも読みが同じ牛丼チェーン「吉野家」があります。かつての「織田時計店」の場所は古着屋さんになっており、たばこ店も近くに見当たりません。

定点

■牛丼つながりというわけでもないでしょうが、写真のコントラストを上げてヨシノヤの前の電柱にある看板をよく見ると、明治28年創業の横浜の老舗牛鍋店 《「荒井屋」の看板》 がかかっています。「荒井屋」さんは、現在もこの目と鼻の先に本店が健在です。

■一方、電柱の下の方に巻き付けられた看板は、婦人薬 《喜谷實母散(キタニジツボサン)の広告》 です。こちらは 江戸時代からの、いわゆる「血の道」の漢方薬です。 私の母も土瓶で煎じてよく飲んでいました。昔の家庭の常備薬といった感じです。写真に写っている二人の母親たちも愛用者だったかもしれません。


その3. 長者町×伊勢佐木町交差点

長者町交差点

■最後の写真は、前の2枚とは別に入手したもので、裏に「 横濱伊勢佐木町 」「 Isesakicho Dori Yokohama 」というスタンプが押されています。観光用に販売されていたナマ写真のようです。また「1938/yo」という鉛筆の走り書きがあります。元の外国人所有者 が「1938年/横浜」の意味で記したものかもしれません。

■撮影された場所は、左に写っている特徴的な建物から、 オデヲン座 があった伊勢佐木町2丁目と3丁目の境目とわかります。この場所を撮った写真も、昔から伊勢佐木町の絵葉書によく使われています。

■中央の白い立て看板のあるところが伊勢佐木町通りと長者町通りの交差点で、1928(昭和3)年から1972(昭和47)年まで、ここを 横浜市電 が通っていました。横浜駅から野毛の切り通しを経て長者町を突っ切り、終点の山元町に至る「 」番系統の路線でした。この交差点を境に左側が長者町6丁目、右側が7丁目、手前が伊勢佐木町の2丁目で奥が3丁目になります。市電が廃された現在では、オデヲン座があった場所はドンキホーテ伊勢佐木町店になっていますが、横浜を代表する映画館だった「 オデヲン 」の名は、ビル名として受け継がれています。

■オデオン座の入口あたりを拡大してみると、なにやら 《人型をした看板》 が並んでいます。その上の大きな垂れ幕には「 巨人ゴーレム 」「 戦慄!空前の大スペクタクル 」などの文字が躍っています。どうやら「巨人ゴーレム」がこのときの上映タイトルのようです。

■オデオン座の上映作品については、克明な記録が残っています。 『ウィークリーにみるオデヲン座興行記録 1924-1942』 (横浜開港資料館刊)によると、「巨人ゴーレム」は 昭和12(1937)年7月15日から21日まで の一週間、上映されていました。まさにそれが、この写真の撮影時点であり、前の2枚の写真から5年後の風景ということになります。なお、「 巨人ゴーレム 」という映画自体はチェコとフランスの合作による1936年の作品です。それから30年後の昭和41年に日本で製作された映画「 大魔神 」は、この映画がヒントになったと言われています。

■通りに目を戻して、中央の大きな立て看板には、信号機の色の説明のほかに、 《「今度自動信号機ガ新設サレマシタ」「オ互ニ信号ヲヨク守リマセウ!」などの文字》 を判読できます。その背後に重なっている同じ看板との間を市電の線路が左右に横切っているはずです。左側の白い制服姿は、サーベルを下げているので軍人のようにも見えますが、夏服を着た警察官です。

オデヲン入口

垂れ幕反転

■明治末年にオデヲン座が創設されて以降、このあたりには戦後の昭和40年代まで、多数の映画館が軒を並べていました。手前の2丁目側に裏返しに写っている垂れ幕は、場所から考えて「 横浜電氣館 」という邦画上映館の広告と思われます。左右反転してみると、左のような文字が読み取れます。二本立て興行中でしょうか。

■「 次郎長と石松 」は筋立てが何となく想像できる映画です。主演の 羅門光三郎 は無声映画の時代から主にチャンバラ映画で活躍した俳優だそうですが、戦後生まれの私はこの写真で初めて知りました。

■もう一方の「 古川緑波(古川ロッパ) 」なら私の記憶に引っかかります。この高名な喜劇俳優の原作だという「 見世物王国 」は、 「日本映画データベース」というサイト によると、「 P.C.L 」という映画製作所(現在の「東宝」につながる映画会社)が1937(昭和12)年6月に発表した作品で、出演者には、ロッパのほか、高峰秀子、清川虹子、藤原釜足といったビッグ・ネームが名を連ねています。

■通りの反対側にも、さまざまな店の看板に混じって 《横浜常設館》 という映画館のネオンサインらしきものが見えます。この映画館はかつて「 角力常設館 」と呼ばれ、なんと 相撲 の興行も行っていた劇場です。遠くに見える高いビルは3丁目の「 朝日座 」か4丁目の「 敷島座 」かと思われますが、 《お化け大会》 なる垂れ幕を掲げています。それこそ、ありとあらゆる娯楽を提供した戦前の伊勢佐木町は、私たちの世代には昭和30〜40年代とダブって見えますが、最後は、そこからさらに50年を経て2016年秋に同じ場所から撮った写真です。(2018年3月記)

常設館看板

Donqui


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