small_logo

ドック橋と矢倉橋

"改修せられたる「ドック」橋" (横浜市中央図書館所蔵 『横浜電気鉄道新線路写真帖』所収)

■上の写真は、この横浜古壁ウォッチングでよく引用している「新線路写真帖」からの1枚です。この「写真帖」は、横浜の市電の前身で あった横浜電気鉄道が、明治44〜45年に本牧や磯子方面に新路線を敷設するにあたって、その工事前後の沿線の状態や実際の作業の様子を記録したもので、「ドック橋」は「矢倉橋」の名で現存します。「やぐら」とは橋の向こうに写っているクレーンのようなものを指しているのでしょうか。

■同様なアングルからこの橋を撮影した彩色写真絵葉書が残っています。こ ちらはずいぶん古めかしい光景に見えますが、明治40年以降の規格の絵葉書なので、「ドック橋」の写真よりほんの4、5年前に撮られたことになります。 《左側の茅葺き屋根の下に黒く見える間隙》 がドック橋の架かっている水路で、船舶の製造/修理を行うドックへの船体の引き込みに使われたものと思われます(写真の上にカーソルを置くと拡大して見ることができます。)

「横浜根岸堀割」絵葉書

■この水路を利用していたヘルム・ドック(「ヘルム船舶修理工場」)の創立は、神奈川県の工場名簿によれば明治40(1907)年4月です。ヘルムは幕末に来日し、太平洋戦争後まで横浜で荷役や不動産など、様々な事業を展開したドイツ人家系の名前です。「ドック橋」は、堀割川の大改修が行われた関東大震災後に「矢倉橋」に改名されたのかと思っていましたが、震災の2年前に横浜電気鉄道を買収した横浜市電の工事記録にも「矢倉橋」の名は記されており、「矢倉橋」が本来の名称なのかもしれません。

大正期の地図で見る堀割川

■上の2つの写真の場所を同じ頃の地図で確認してみましょう。

■次の地図は、最初の「ドック橋」の写真が撮影されたのとほぼ同じ頃のものです。撮影した地点と方向を黄色の矢印で示してあります。地図上の赤い線は電車の路線を表し、路線上の白い丸は電車の停留場を表しています。また、 《造船工場の水路》は地図上に水色で示されています。ちなみに、この地図には日本の近代化を誇示するシンボルのひとつとして《明治32(1899)年に堀割川沿いに開設された「横浜監獄」》の特徴ある正方形の敷地も描かれています。どちらも太文字の上にカーソルを置くと丸で囲んで表示されます。

「大正調査番地入横浜市全図」 大正2年(横浜市中央図書館所蔵)を基に作成

■次に示すのは、「横浜根岸堀割」絵葉書の写真が撮影された時期の地図です。撮影地点は同じく黄色のマークで示してあります。この地図では《電車の引き込み線が赤で示されており、向かって右側の堀割川上流から順に「天神橋」「根岸橋」「滝頭運輸課前」という各停留場名が赤字で書き込まれています。

「大正調査番地入横浜市全図 訂正9版」大正9年 (横浜市中央図書館所蔵)を基に作成

■「天神橋」と「根岸橋」の停留場は位置や名前が現在の市バスの停留所にほぼ引き継がれていますが、「滝頭運輸課前」はほどなく車庫の近くに移設されて「滝頭車庫前」と改名され、最終的に「滝頭」になりました。ここで「運輸課」とは、横浜電気鉄道が大正10年に横浜市に買収されてから昭和21(1946)年6月まで存在した横浜市電気局(現在の横浜市交通局)の職制にもある名前です。電車事業がまだ揺籃期にあり、電気事業の一環と見られていたことを暗示しています。現在この車庫跡には、市バスの車庫と「市電保存館」があります。

現在の矢倉橋

■次の写真は現在の矢倉橋です。奥は埋め立てられて河口と橋台だけが往時の姿を留めています。

現在の矢倉橋

現在の矢倉橋(2016年7月撮影)

■「ヘルム」の名が付く船舶工場は戦後の昭和三十年代の工場名簿までたどれましたが、現在は存在しません。跡地には、写真のような市営住宅が建っています。

■かつて、この跡地には「大入産業」という解体業社がありました。その社長の次男は、昭和36(1961)年公開の東宝配給映画「名もなく貧しく美しく」でデビューした映画監督、松山善三です。当時駆け出しの監督だった彼が大女優の高峰秀子と結婚したのは昭和30年のこと。すでに二人とも故人となり、高峰秀子は優れた随筆家としても名を残しています。

■余談ながら、結果的に夫婦合作となった「名もなく貧しく美しく」は戦前から戦後にかけての聾唖者夫婦の困難な生活を描いた作品です。親にむりやり連れて行かれて観た映画でしたが、子供心に強く感動した想い出があります。端役で出演していた青年が加山雄三だったことは、かなり後になって知りました。

ドック橋と矢倉橋 石積みの比較

■矢倉橋の橋台の石積みに目をこらすと、ドック橋の頃から変わっていないように見えます。それを確認するため、橋台の各段に番号を付けて比較したのが次の写真です。 《4〜7段目などの石そのものを左右で比べてみるとまったく同じである》ことが判りました。

石積みの比較

左「ドック橋」は横浜市中央図書館所蔵『横浜電気鉄道新線路写真帖』所収の写真から作成、右は2016年の実写

■堀割川は明治初期に開削された後、二度、大規模な改修が行われています。明治末の横浜電気鉄道延長時と、関東大震災後の昭和初期の震災復興時です。

■明治末の改修では、電気鉄道の新線路を敷く右岸が整備の対象となり、支流から堀割川に流れ込んでいた水路は、近隣の工場などへの水運に利用されていた3本だけが残されました。それらの支流が堀割川へ注ぐ河口には、「旭橋」「日之出橋」「矢倉橋」という橋が架かっていました。ちなみに、左岸にも関東大震災まで4本の支流からの水路があり、そこにも橋が存在しましたが、それらの橋の名前を明記した資料は見つかっていません。

■一方、関東大震災後の改修では、地震で壊滅的な被害を受けた護岸が全面的に造り変えられ、それまで房州石でブラフ積み風に組まれていた護岸は間知石積みになりました。同時に、両岸にあった支流からの水路は、矢倉橋のある河口を除いてすべて暗渠化され、その後、矢倉橋の河口も事実上封鎖されました。 矢倉橋の河口だけが残った理由は、ドックにつながっていたことと関係がありそうです。

■堀割川は、太平洋戦争の被害を免れたため、震災復興期の姿をそのまま残すものとして、2010(平成12)年に土木学会の土木遺産に認定されました。矢倉橋の橋台は、単に堀割川の支流の痕跡を今に残しているだけでなく、このページの比較写真で示したように、堀割川全体を通じて現存最古の石積みということになります。震災復興の護岸の石積みと同じように見えるためか、その点があまり注目されないのが残念です。(2023年3月記)


戻る | | 目次へ

Copyright(c) 2023 fryhsuzk. All rights and wrongs reserved. ---- メールアドレス