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汐汲坂のなまこ壁校舎

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<異彩を放つ?なまこ壁>

■この写真は、明治 39 年(1906 年)から昭和 22 年(1947 年)まで元町・汐汲坂にあった横浜高等女学校の写真です。同校は非ミッション系としては横浜初の女学校で、現在は磯子区岡村に移転して男女共学の「横浜学園中学・高等学校」となっています。現在の汐汲坂には、その附属幼稚園が明治 42 以来の長い歴史を今も維持しています。

■撮影時期は、同じときに坂の上から撮ったと思われる写真が横浜学園発行の『創立八十年誌』(昭和 55 年)に載っており、そのキャプションに「明治末頃」と記されています。服装から考えて、創立記念日のある2月に撮られたもののようです。印刷されているのが校名だけなので、学校案内などに使われた写真のようでもあります。それにしても、こうしたなまこ壁の校舎は明治末の当時でも異彩を放っていたのではないでしょうか。

<横浜高女の首脳陣>

横浜高女の首脳陣■石積み擁壁の上に横浜高等女学校の首脳陣が並んでいます。四人のうち、左端の白髪、和服姿が校長兼校主(理事長)の田沼太右衛門翁と思われます。石積みの様式ははっきりしませんが、現在の石積みはレンガで言うと「イギリス積み」のような珍しい形式になっています。

<Retz ビルディングの影>

Retz ビル■左手の木々の後ろには大きな建物の影が見えます。これは、位置と大きさから考えて山手 179 番地に建っていた五階建ての共同住宅「Retz(レッツ)ビルディング」と思われます。この建物は関東大震災で崩壊しました。

※左右どちらの写真もクリックすると拡大して表示できます。

<小学校から女学校へ>

■実は、この校舎、元は元街小学校の校舎として明治 15 年(1882 年)に新築されたものです。その元街小学校の山手移転に伴い、当時ここから 2km ほど離れた日ノ出町にあった横浜高等女学校が、その校舎を買い取って、明治 39 年に移転してきたのです。横浜の急速な発展と就学生徒・児童の爆発的な増加により、どの学校もより広い敷地を求めていた頃のことです。右端にちゃっかり写り込んでいる小学生にとっても、このなまこ壁校舎は母校だったのかもしれません。

■ただし、元街小学校の記録によると、明治 15 年の新築当時の建物は、この写真のような三階建てでなく「二階建て」となっています。その後、明治 31 年(一説には 37 年)に「校舎の大半」が改築されているので、この写真は改築後の姿ということになります。その後、横浜高等女学校となってから大規模な改造の記載は見あたりません。大正 12 年の関東大震災で「全校舎が焼失」するまで、このなまこ壁の校舎は残っていたようです。

<ブラフ溝か?>

■さて、この写真で私がなまこ壁以上に興味を引かれた部分を次に拡大してみましょう。

ブラフ溝か?

■坂道と木柵の間に石を敷いたと思われる側溝が見られます。横浜・山手に多少詳しい方なら、「ブラフ溝」の名前を思い浮かべることでしょう。「ブラフ溝」(と「ブラフ積み」)の名称を提唱した昭和 62 年横浜市教育委員会発行『横浜山手 - 横浜山手洋館群保存対策調査報告書』によると、ブラフ溝は明治初期(記録が残っている最古のものは明治8年)に築造されたものが現在も数多く残っており、調査が行われた昭和 61 年当時ブラフ溝が現存していた場所として、この汐汲坂の名前も入っています。

■ただ、ブラフ溝は「厚手の板状石の中央部を丸彫に抉[えぐ]って敷き並べたもの」で、「長崎の居留地においても、横浜山手と同様の石造側溝が現存しているが、長崎の方は、石を刳ることがなく、平石を用いてV字型に敷設している」そうです。また、そうしたV字型側溝は、長崎だけでなく横浜にもあり、私自身も根岸外国人墓地で実際に見ています(「震災被災者が眠る根岸外国人墓地」を参照)。さらに、現在の汐汲坂にブラフ溝は現存しておらず、上記の調査時に現存していたという場所も、坂のもっと上の方ではないかと思われます。

■そのうえで、改めて眺めてみると、写っている側溝は丸く抉ってあるようにもV字型のようにも見え、どちらか判然としません。さて、皆さんはどちらと思われますか? (2012 年 7 月記)

※なお、この稿を作成するにあたって、文中に示した資料のほか、『横浜市史稿』、『元街の百年』、『元町一四〇年史』を参考にさせていただきました。


<おまけ:埋もれたブラフ溝>

埋もれたブラフ溝写真1■最後に、汐汲坂ではありませんが、この稿を準備中にたまたま見つけた正真正銘のブラフ溝をご紹介します。ご覧のように最近の工事か何かで上を覆っていたコンクリートがはがれ、埋もれていたブラフ溝が姿を現しています。つまり、古いブラフ溝を塗り込めるようにして、上に新たな側溝が設けられていたのです。左の写真の上の方に、ブラフ溝の部分とその後の側溝の境目が写っています。(写真は左右どちらも 2012 年 6 月撮影)


埋もれたブラフ溝写真1■もしかすると、上記の教育委員会の調査報告で注目を浴びるようになる前のブラフ溝は、新しい側溝に補修する際、通常はこうした形で埋められたいたのかもしれません。

■この場所は調査報告書にブラフ溝の現存する場所としては記載されていません。調査当時は、外観上新しい側溝になっていて見過ごされた可能性もあります。近くには、右の写真のように、ブラフ溝と思われる石板がわずかに顔をのぞかせている部分もあります。ブラフ溝はブラフ積みほど多くは残っていないとされていますが、このような埋もれたブラフ溝は、他の場所にも多く残っているのでは、という希望を持たせてくれます。


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