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古壁余話:O.M.プールのあれこれ

このページは『古き横浜の壊滅』、原題『The Death of Old Yokohama』の著者である O.M.プールに関する雑情報とリンクを記したメモです。リンク先のページは、いずれも新しいウィンドウに開かれます。

■『古き横浜の壊滅』(O.M.プール著・金井圓訳・有隣新書)は何度読んでも読み飽きないドキュメンタリーです。関東大震災時の横浜を描いた手記の中でも、とりわけ魅力に富んでいます。なぜなのかと考えてみると、うまく言えませんが、震災の単なる「点」の記録でなく、「線」またはもっと広がりのある「面」の記録になっているからだろうと思います。これは、著者 O.M.プールが少年時代から横浜に住んでいて、横浜について熟知していることや、山下町のオフィスで震災に遭い、中華街や元町の悲惨な被災状況を見ながら山手の丘へ登り、そこでは大火災に追われて現「港の見える丘公園」の断崖を命からがらに埋め立て地へ降るという数々のスリリングな体験をしたこと、そして物語りの中で外国人社会での知人や有名人の安否なども細かく記していることなどによるものかもしれません。

■この書籍の原書は横浜市中央図書館で借り出すことができます。訳書にはない索引が付いており、震災時の外国人の個人的な状況をたどるのにも便利です。また、掲載されている写真も訳書に比べて鮮明です。英文も平易ですから、震災に関心のある方には一読をお勧めします。

■著者のオーティス・マンチェスター・プール(Otis Manchester Poole)について、彼の妹の孫という人物がインターネット上に彼の詳しい自伝を載せています。URL は以下のとおり。 http://www.antonymaitland.com/ompoole1.htm

■この Web サイトには、オーティスの妻ドロシー・メイ・キャンベル(Dorothy May Campbell)の自伝もあります。彼女は初代箱館駐在アメリカ領事の曾孫という家系で、横浜の山手 7 番地の生まれです。 http://www.antonymaitland.com/campbell.htm

■ほかに、オーティスの 3 人の子供たちについても、同様な伝記が載っています。そのうち、次男のリチャードは、その後も日本との因縁が浅からぬ人物なので、以下の点を補足しておきます。

リチャード・アームストロング・プール(Richard Armstrong Poole)は震災時に 3 歳で、港の見える丘の断崖を下るときに歳に似合わぬ勇気を見せて親たちを感動させました(『古き横浜の壊滅』p.82)。震災後、オーティスの転勤で一家がニューヨークへ移ってからアメリカで過ごし、国務省に奉職します。そして 1945 年(昭和 20 年)、日本の敗戦のとき、進駐軍将校のひとりとして再び出生地・横浜の土を踏みます。外交官として国際関係や法律に詳しかった彼は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民政部に配属され、26 歳の若さで日本の新憲法草案起草作業に参加します。彼の担当は天皇条項などでした。ちなみに、どういう機縁か、彼の誕生日は昭和天皇と同じ 4 月 29 日です。

■そうした経歴から、リチャードは 2000 年(平成 12 年)5 月に参議院の憲法調査会へ参考人として招かれ、当時の経緯や考えを陳述しました。そのときの会議録が、以下の Web ページに載っています。 http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/keika_g/147_07g.htm

■また、その前年、終戦直後の日本を幅広い視点から描いてピューリッツアー賞を獲得した J.ダワーの『敗北を抱きしめて』(原題「Embracing Defeat」)にも彼の名前が登場します(下巻 p.138)。リチャードは 2006年 2 月、86 歳で天寿を全うしました。

■おまけとして、たまたま別のことを調べているとき、オーティス・マンチェスター・プールの父親で、やはり貿易商社員だったオーティス・オーガスタス・プール(Otis Augustus Poole)が 1887 年 12 月に日本の皇族と一緒の船で横浜へ上陸したという記録を見つけました(1887 年 12 月 10日付 Japan Weekly Mail)。マンチェスター・プールは自身が家族と一緒に来日した時期を 1888 年 5 月としています。父親の来日は、一家移住の下見を兼ねてのことだったのでしょうか。


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