山手・陣屋坂

この写真の右の道を下ったところが陣屋坂です。文久三年(1863)から明治八年(1875)まで、このあたり一帯に英国軍の陣営があったために、この名が付きました。この写真は明治末から大正初め頃の絵葉書で、左側の建物は米国海軍病院、中央の奥が谷戸坂上の英国海軍病院。外人墓地の門前から現在の港の見える丘公園の方を撮したものです。これらの建物は、ことごとく関東大震災で崩壊、焼失しました。

右端の家の生け垣は土台がブラフ積みのように見えます。短辺に白っぽい石を使っているのは、意図したデザインでしょうか。この右のほうにも同じような石積みが続いていたはずです。

2003/May
上の写真の現在の様子です。米国海軍病院の跡地には税関職員宿舎と、この写真には写っていませんが横浜地方気象台が建っています。右の民家のあったところには、インターナショナル・スクールの敷地になりました。では、右へ下ってみましょう。

2003/Jun

ここは上の写真のすぐ下なのですが、残っている石垣はブラフ積みではありませんでした。震災直後に英国海軍病院側から撮した写真では、このあたりの建造物は、ほとんど原形を留めていません。あるいは、ブラフ積みの石積みはそのときに崩れ、震災後に、このような修復が行われたとも考えられます。
 


2005/Feb
陣屋坂をさらに下って、山手町と諏訪町の境に残っている石垣。ここが、英国陣営の端にあたる。明治14年にこのあたりの石垣を修造した記録が残っていて、この石積みはその当時のものかという見方もあるようです。が、ここもブラフ積みではなさそうですし、石の風化の度合いも、南坂などと比べて低いように思われます。震災後のものではないでしょうか。
よく見ると上の方に焼けこげたような黒い跡が見られます。この石垣が震災後のものだとするなら、太平洋戦争での空襲の名残でしょうか。ただ、米軍は外国人が多く住んでいた山手を焼夷弾の目標にするのを避けたという話もあります。
 


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