北方・竹ノ花


(2005/Feb)
写真の左側は、かつての山手・畑町(はたちょう)で、右側の北方・竹ノ花(現・千代崎町)に下る急坂です。ここにも山手居留地と日本人地区の境界をなしていたと思われる石垣が現存しています。明治17年の石垣改築計画が記録に残っていると聞いています。右下には、北方村の旧家、箕輪家の邸宅がありました。現在は国家公務員住宅が建っています。
上の写真の電柱を中心に坂の下ったところから見上げた写真。こう見ると長手を横に連ねた長手積みのように見えますが、全体としては、下の写真のような小口・長手・長手・小口・長手・長手...といったパターンになっています。

(2005/Feb)

(2003/Nov)
このパターンを正式に何と呼ぶのかわかりませんが、小口と長手をそれぞれモールス信号のトン・ツーになぞらえて、ト・ツー・ツー、ト・ツー・ツーの繰り返しから「ト・ツー・ツー型」と勝手に呼ぶことにしました。あるいは、ト・ツー・ツーのモールス信号はWを表すそうなので「W型」も良いかもしれません。ちなみに、この伝で行くと他の石積みは次のようになります。
ブラフ積み ト・ツー型、A型
長手積み ツー・ツー型、M型
小口積み トトト型、S型
 

(2005/Feb)

(2003/Feb)
さらに坂を下ったら、見事なブラフ積みの石垣がありました。上は、2004〜2005年にインターナショナル・スクールの運動場に整地されましたが、見てのとおり、一番上の石は、かなり風化が進んでいます。そうとう古そうです。 左の写真の壁は、このように右に折れています。これは左の2年前に撮影した写真で、石垣の上はまだ整地されておらず、笹が生い茂っていました。大変立派な擁壁です。このあたりは人通りも少なく、落ち着いた良い雰囲気を醸し出しています。
(2005/Apr記、2015/Jan一部訂正)



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