山手隧道


(2002/Dec)
左の写真は麦田側の入口です。手前のアーチ型陸橋は「桜道橋」で、山手1番地から上野町へ通じる桜道(さくらみち)がこの上を通っています。下の写真は開通後間もない昭和2〜3年頃の絵葉書です。関東大震災でトンネル上の山手の外国人住宅がほとんど壊滅した後ということで、山上に再建された家もまだ少ないようです。

トンネル本体の外壁に埋め込まれた銘板(下の写真)には昭和2年12月竣工と刻まれていますが、このトンネルの開通を昭和3年3月とする資料もあります。どちらが正しいのか疑問に思っていましたが、本牧に住む須藤禎三さんが丹念に昔の新聞記事に目を通して抜粋した『横浜貿易新報に見る昔の本牧』という冊子で疑問が解消しました。それによると、昭和2年の歳末の交通繁忙に間に合うようトンネル本体工事を優先させ、年内に一般の通行も許しましたが、正式な開通式は桜道橋完成後の翌年3月16日に挙行されたためです。なお、この稿は須藤さんの著書に依るところが大きく、須藤さんのご労作に改めて感謝します。

上の絵葉書には「桜道大トンネル」と書かれていますが、当時の新聞には「山手大トンネル」とか「元街トンネル」などの呼称も見えます。当時としては「幅員が日本一」あるいは「東洋一」とかで、だいぶ注目されたようです。ちなみに、記事によると幅7間、長さ150間で、長さをわざわざ「千尺」と書いて「偉容」ぶりを表しています (実際の長さは 218.4m)。開通式当日は、地元で盛大な祝賀会が開かれたほか、元町、石川町はもちろん、現在の関内駅に近い不老町あたりの商店街までもが大売り出しで気勢を上げました。ちなみに、当時、このあたりの名称は「桜道下」が一般的だったようです。近くの電停名が「桜道下」から「麦田」に改名されたのは、このトンネルの開通と同じ昭和3年だそうです


(銘板)

(2004/Jan)
これは、トンネル上の山手・橦木町から見た桜道橋。上の写真に見える親柱の照明灯はすべて取り外されて(壊されて?)、往年の華やかさはありませんが、橋自体は堂々たるものです。照明灯を復活し、ライトアップした姿を見てみたい気がします。


親柱(2005/Jul)

照明灯跡(2003/Nov)

開通当時のトンネル利用状況については、昭和3年3月14日〜15日 24時間の交通調査が残っています。それによると、人の通行は 5622 人ですが、自動車とオートバイ、サイドカーの合計が 556 台なのに対し、荷車が 518 台、荷馬車が 478 台、自転車 142 台と、まだモータリゼーションにはほど遠い状況です。さらには人力車 55 台、牛車 68 台なども混じっています。いまとは打って変わって、ずいぶんのんびりした通行風景だったことでしょう。しかし、このトンネルの開通で物流が改善され、それまで2割高と言われていた本牧方面の物価が下がるだろうと期待されました。

余談ですが、このトンネルは、震災後に初めて計画されたのではありません。震災の約半年前にすでに横浜市の都市計画局が計画を公表していて、震災をきっかけに国(復興局)から予算を引き出して計画を実現したものです。現在の本牧通りにも数十年前から道路拡張計画があって、新築・改築にあたっては1.5メートルのセットバックを考慮しなければなりませんが、工事自体が始まる気配は一向にありません。次の大地震でも待っているのかもしれません。都市計画というものは、大災害が起きたときを想定して作られるもののようです。

これは一番上の写真の左端の方でトンネルの擁壁が、それより古い石垣に接しているところです。幼稚園の2本の看板の間で、右側が割石積み、左側は一部ブラフ積みのようですが、全体として何と言ってよいかわからない積み方です。ただ、この様子からトンネル擁壁より古いことは確かで、言ってみれば、ここが震災前と震災後の境目ということになります。古い石積みは、ここから柏葉の巨大擁壁へ延々とつながっています。(2005 年 9 月記、2011 年 1、3 月補記)
 



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