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震災直後の汐汲坂上

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山手52番地の映像

■これは「震災直後の谷戸坂」のページで示した写真と同じ、松田理吉さんの撮影とされる写真です。写真の裏側に「52/b/a Bluff」という番地と思われるものがタイプ打ちされており、山手の汐汲坂を登り切った北側、現在フェリス女学院の構内にあたるところを撮影した映像と思われます。写真では隠れていますが、この敷地と右側に見える山の間を汐汲坂が走っています。

■震災時、この敷地には一般外国人の住宅が建っていました。手前に散乱している《ティーポッド》《おびただしい数の食器の破片》《地震とそれに続く火災の跡を生々しく伝えている瓦礫の山》、焼けた樹木などが、それらの家庭を突如襲った災害を彷彿させます。また、《右側の山》は元町百段から高田坂に至る一帯で、震災まで山上にあったレンガ造り五階建てマンション「レッツ・ビルディング」は崩壊して姿を消しています(いずれも《》内にカーソルを置くと拡大できます)。

遠景に2隻の軍艦

■この写真でも、救援活動にあたった日本海軍の艦船と思われる船影が遠景に認められます。拡大してみましょう。

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■2隻が舷を接するように停泊しています。手前側(1)は「震災直後の谷戸坂」の写真に写っている駆逐艦と同じ型のようです。その左側(2)に、それより少し大きい軍艦が見えます。海軍の記録では、震災時、主に「球磨」型の軽巡洋艦が横浜で救援活動を行いました。煙突などの構造から見ても、これは「球磨」型巡洋艦(5100t)と見て間違いないようです。この型の巡洋艦は第一次世界大戦後の建艦競争時に、大正9年から10年(1920-1921年)にかけて建造された当時最新鋭の船でした。

(3)は民間のヨットのようです。 (4)は一見すると船のマストのように見えますが、実は船よりずっと手前のフランス波止場に建っている《報時球(タイム・ボール)のマスト》です。これについては、「震災直後の谷戸坂」で触れています。

震災直後の航空写真から

■次に示すのは震災4日後の大正 12(1923)年9月5日に撮影された航空写真です。この現場附近を切り出してみました。白い線が山手本通りで、本題の写真が示す山手52番地を水色の線で囲んであります。
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横浜中央図書館所蔵「横濱震災航空寫真眞帖」より部分拡大
(地番の文字等は本サイトでの加工)

■この番地には震災当時4つの区画があり、ab の区画は、それぞれ図に示したとおりです。これらは少し離れているので、両方を写したものと考えるのには無理があります。どちらかというと、山手本通りに面した a を写したものと見るのが自然な感じがします。しかし、あえて「52/b/a」と記されていることに、果たして何か意味があるのかないのか...。

■最後に、このあたりで今も見られる古い石積みをご紹介します。私の見立てでは震災前に建造されたものの名残りと思われるのですが、冒頭に掲げた写真では、被写域がわずかに外れていて確認できません。

震災前のブラフ積み?

■右から3番目の石柱のところで、石積みの形態が変わっています。そこから右は、一番上が長手積み、その下に 《長手と小口を交互に並べた房州石による正統派ブラフ積みのパターン》が見られます。2段目から下は土に埋もれているようです。冒頭の写真から推測すると、このあたりは震災で大きく土砂が崩れており、下部はそれに埋もれてそのままになっているのかもしれません。

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(2013/Jan 撮影)

■一方、《3番目の石柱から左側は「大谷石」による石積み》になっています。大谷石は震災後に多用されるようになったことがよく知られており、山手でも震災後の石積みは、パターンがブラフ積みで石材を大谷石に変えた、いわば「大谷石ブラフ積み」(私の勝手な命名です)がよく見られます。おそらく、これもその類いで、震災後に補修されたものではないかと思います。(2011年12月予告編として公開、2014年11月更新および画像追加)

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