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震災直後のジェラール工場跡

bluff77

"General view of ruins"

撮影地の推定と謎のタンク

■これは、2011年4月にインターネット・オークションでアメリカの収集家から入手した古写真です。関東大震災時の横浜の写真として出品されていた一連の写真のうちの1枚で、裏に「General view of ruins(廃墟の全景)」と鉛筆で書かれています。出品されていた写真には、いずれも裏にこうしたメモ書きがあり、その内容には撮影者でなければわからないような事項も含まれている一方、明らかに横浜でない場所を写した写真もありました。私が落札できたのはこの一番地味だった1枚だけでしたが、実際に手にしてみると、さまざまな情報を含んだ興味深いものであることがわかりました。

■まず、手前左に写っているいくつかの墓石らしきものから、これが横浜の写真であれば、横浜外国人墓地が考えられます。そうすると、写真中央の開けた土地は、かつてジェラールの瓦工場があった現在の元町公園ということになります。右端の遠景には、川のような白っぽい光と、それを挟んだ対岸?に骨組みだけになった建物が見えますが、堀川とその向こうの山下町の建物群と考えれば位置的に符合します。また、中央に写っている丘をよく見ると、右端に崩壊した石段があり、これは高田坂の位置に相当します。さらに、その左側の崖は大きく崩れ落ちていますが、この急峻な地形も現在の山手のそのあたりに酷似しています。

■それと、これは実物の写真をデジタル画像にして拡大してわかったのですが、手前の墓地の中に外構フェンスの残骸が写っており、そのデザインが、横浜の外人墓地のフェンスと同じものです。(このデザインは現在の外人墓地にも受け継がれています)。

■しかし、どうしても腑に落ちなかったのが、右下に大きく写っているタンク状の構造物でした。下の方はレンガ造りになっており、かなり大きなものですが、震災直前に写された航空写真には、外人墓地内にそのような構造物は存在しません。いったいこれは何なのか...

現地からのヒント

■そんな疑問を抱きながら現地を歩いてみました。すると、当初この写真は外人墓地の正門より南側の「山手十番館」レストランのあたりから撮影されたのだろうと漠然と考えていたのですが、そこからでは、左の小山(現在の元町プール。この小山の山裾あたりがプールの管理事務所が建っている所か)がこれほど離れては見えないことがわかりました。地形から考えると、撮影地点は外人墓地正門より北側、現在の横浜地方気象台のあたりに思われるのです。ただ、気象台の前の道から撮ったにしては墓石の位置が(地震で崩れたにしても)遠すぎるようでした。

■ところが、帰宅後この写真を改めて眺めていたら、問題が一挙に解決しました。これは気象台の前の道からでなく、それより数メートル高い気象台の敷地内、つまり当時の米国海軍病院の敷地から撮影したと考えると説明がつくのです。写真では、手前の瓦礫とその先の墓地がつながっているように見えますが、実はその間に大きな段差があるのです。そして手前の瓦礫が病院の敷地内のものとすれば、右に写っているタンクも病院の貯水槽か何かだろうと推察できます。高い場所から見下ろしているので、外人墓地の墓石も遠くに見えます。

まだある注目点

■撮影地点を解明できたところで、さらに細かく見てみると、写真中央を左右に横切っているのは代官坂です。その道沿いには、崩壊した大きな洋館が写っています。また、左の小山の上に、倒壊を免れた瀟洒な洋館があります。さらに、左上隅に、ひときわ大きな建物があります。位置的にはフェリス女学院のあたりと思われるのですが、フェリスは地震後に焼け落ちているはずなので、別の建物だろうと思われます。一方、かつてジェラールの瓦工場があった写真中央の窪地には、震災当時、大正活映という映画会社の撮影所とジェラール給水会社があったそうなのですが、この写真で見る限り、大きな建造物の残骸は見当たりません。

■この写真を起点に、別のページでそうした細部を掘り起こしてみることにしました。まずは「激震と大火に耐えて」へお進みください。なお、本ページの下線部分をクリックすると該当する部分の拡大写真が表示されます。(2011年11月記、2013年12月補記)

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