震災直後の貝殻坂下 |
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■この写真も 2013 年に入手したものの1枚です。写真の裏に鉛筆書きで上記のキャプションが書かれています。最初に見たときは、どこから撮影したものかよく判りませんでした。海外からの震災写真は Yokohama と書かれていてもそうでない場合があります。実物が届いた後、例によってデジタル画像にして細部を検証してみました。 ■この写真では、中央の遠景、手前左側に写っているバラック群、そして右側の墓地らしき丘陵部の3ヵ所が特徴的ですので、それらの部分を拡大してみます。まずは中央の遠景部分から見てみましょう。なお、このページで《 》で囲んだ項目は、そこにカーソルを置くと画像上に指示マークが出ます。 |
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震災直後を象徴する建物が...
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※それぞれの建物の画像は、「震災画像 - 1923(大正12)年9月の横浜」のコーナーの「本町通りの救援活動」や「露亜銀行は残った(1)」のページでご覧になれます。 |
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焼け跡のバラック群■この拡大写真の上の方で横に一直線に走っているのは《「堀川」岸の道》と考えられます。すでにバラックが建っているので震災当日から何日か経っているはずですが、山下町側では、まだ火がくすぶっているようです。 ■手前から堀川に向かって、いく筋かの道が確認できます。《一番手前に大きく写っている道(1)》は左方から坂を下ってきて、右の外国人墓地の山裾に沿って走っています。それとは別に中央のバラックからまっすく堀川へつながる《やや広い道(2)》が見えます。その道に斜めに合流するように《細い道(3)》があり、この小道は《道(1)》の延長線上でつながっているような感じがします。さらに、画面の上の方に、《別の長い道(4)》が堀川方向に走っています。 震災被害地図にあてはめると...■次に示すのは、震災の1ヵ月後に「大日本帝国陸地測量部」から発行された「横浜火災図」という1万分の1の地図です。これは震災の前年に測量した地図に、横浜測候所が行った関東大震災での火災被害調査を落としたものです。火元や火流線、火災発生時刻などが赤で印刷されており、焼失区域は斜線で示されています。 |
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■バラックの部分を集中的に見てみましょう。 ■この一帯は明治期にジェラールの瓦工場があった場所で、現在、国の有形登録文化財となっている「ジェラール水屋敷地下貯水槽」は、《このあたり》になります。大正の震災時にも被災者に水を提供したと言われています。バラック周辺に写っている人影は、その光景なのでしょうか。また、《こちらの建物》の位置には、2006 年頃まで震災の名残とも思えるような基礎(下の写真左)が残っていました。さらに驚いたことに、右下の道路の縁石を見ると、《この屈曲部の形状》は現在でも少しも変わっていません(下の写真右)...よく考えれば、あたりまえですが。 |
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■そういえば、F.ベアトの古写真で、貝殻坂下が池のように写っているものがありました。なので、このあたりの石積みは護岸みたいなものだったのかなと思っていましたが、実は池ではなく豊かな水田だったことを長崎大学附属図書館の古写真コレクションで知りました。「1275 山手からの横浜居留地(3)」のページで自由に閲覧できます。 ■最後に、上のバラック群の画像と同じようなアングルで撮影した最近の写真をご覧ください。現在元町公園となっている土地は、関東大震災後に横浜市の所有に帰したものです。 ■左の水たまりのあたり、私の少年時代には 15×7 メートル、平均水深 0.6 メートルの「子供プール」がありました。浅いところは深さが 30cm にも満たないため、夏の暑さでいつも水が生暖かく、すぐ上にある、湧水を利用した 50 メートル・プール(9 コース、最高水深 5 メートル、最低水深 1.3 メートル)の息が詰まるような冷たさと対照的でした。そのためか、あるいは幼児もはいれたからか、50 メートル・プールで泳ぐことができるようになった小学生は、子供プールを見くだすように「しょんべんプール」と呼んだものでした。そこにこのような歴史があろうとは思いもよらないことでした。(2014 年 3 月記) |
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