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「本牧地所経営地」(1)


「本牧地所経営地」

「本牧地所経営地」
『横浜電気鉄道新線路写真帖』(横浜市中央図書館所蔵)所収

■これは私が横浜の郷土史に関心を持つきっかけとなった写真の1枚です。初めて目にしたのはもう 30 年ほども前のことで、昭和 40 年代に発行された写真集に載っていました。この写真に目を引かれた理由は、写真上部に写っている丘陵とその山裾の家並みが、中区・上野町(うえのまち)と妙香寺の山のあたりの写真に似ているように思ったからです。そこは私の生まれた場所です。もしかするとこれがその私の知らない昔の姿なのかもしれないと思いました。

■しかし、キャプションには「本牧地所経営地」と書かれていました。上野町は「本牧」ではなく「北方(きたがた)」です。ただ、私の家は親類から(たぶん漠然とした方向を指す意味で)「本牧」と呼ばれていたため、私の頭の中に子供の頃から上野町=本牧という誤解が刷り込まれていました。また、他の写真集で目にした「北方」あたりの古写真にもよく似ているように思われたのです。


■結局、そうした疑問は、この写真が横浜電気鉄道株式会社(のちの横浜市電)の『新線路写真帖』という資料に収められている 1 枚であること、そしてその資料が横浜市中央図書館に保管されていることがわかり、それを閲覧させてもらうことによって、あっけなく解決してしまいました。その資料は、明治末年に設けられた横浜電気鉄道の延長区間について、工事前後の周辺の風景を撮影した写真集で、きちんと停留所順に写真が掲載されているため、簡単に場所を特定できたのです(「本牧地所経営地」とは、横浜電気鉄道が延長線の敷設に合わせて、沿線の宅地開発事業を行った土地という意味です)。それまでの間、明治期の古地図や地形図を参考に、撮影地と思われる場所を訪れて実際に写真を撮ってみたり、ずいぶん余計な回り道をしていました。

■「本牧地所経営地」のオリジナル写真は、当然ながら書籍に転載された画像とは比較にならないほど鮮明です。また、高解像度のデジタル画像に変換された写真をパソコンで表示すると、オリジナルを虫眼鏡で見るよりもずっと細部まで解析できます。その副産物として、同じ『新線路写真帖』から大神宮山の風車が見つかった経緯は、「大神宮山「ヴィラ・サクソニア」の風車跡」のページに述べてあります。ここでは、「本牧地所経営地」の高精細画像から、トリビアな情報を搾り出してみたいと思います。

『横浜実測図』

明治14年『横浜実測図』
(横浜中央図書館所蔵)より

この地図は「本牧地所経営地」の写真より約 30 年前に作成されたものですが、地形がきれいに写し取られており、このあたりは横浜電気鉄道が敷設されるまではほとんど開発されていないようなので、比較作業に利用しました。


■まず、大まかな位置を把握しておきましょう。「本牧地所経営地」の写真は高い位置から水田を挟んで向かい側にある山を写しています。その山は右の方で切れ、その先に少し開けた場所があって、そこはさらに奥に家並みが続いているようです。また、その右側は再び樹木に覆われた丘陵で終わっています。

■こうした条件に合った撮影アングルを『横浜実測図』の本牧付近で探してみると、右の図に実線の矢印で示した@がうまく符合するようです。

■破線の矢印で示したAは、私が当初、別の可能性として上野町あたりを写したものではないかと推定したアングルです。この場合、カメラの位置は鷺山(さぎやま)大和町(やまとちょう)になります。実際に現地から撮影してみると、向かいの山がやや大きく写りますが、似たような写真が撮れる場所があります。

『横浜実測図』

明治14年『横浜実測図』(横浜中央図書館所蔵)より


■では、@に間違いないかどうか確認してみます。まず、元の写真の左中ほど、山裾の家並みの前を走っている道に注目してみましょう。左端から出てきた道が庭先?に何本か樹木のある家の所で、少し奥へ曲がり込んでいるようです。また、山に沿った家の並びを考えると奥にもう一本の道があり、この樹木のある家の前で両方の道が合流していると思われます。地図の上にカーソルを置いて確認してみてください。実線で表示されるのが写真に写っている道筋で、奥に隠れていると思われる道は破線で示してあります。

「本牧地所経営地」集落部分


■この地形を『横浜実測図』の該当する地域から探してみると、まさに@の矢印の先あたりに、2 つの道の合流点があります。むしろ、ここしかないので簡単に見つかります。

『横浜実測図』本牧拡大


■では、今度は地図にある近くの道を写真から探してみましょう。最初に注目した道を地図の左下(西)方向へたどってゆくと、もうひとつの合流点があり、ここから別の道が右へ伸びています。この道は、途中まで川(千代崎川)に沿っていて、しかも村境(一点鎖線)になっています。下の拡大地図では左上が北方村右下が本牧本郷村になります。また、前の合流点付近から村境に向けて引かれている、これは道というより田圃のにも注目してみます。下の図にカーソルを置くと川沿いの道が水色で、畝が白線で表示されます。

『横浜実測図』村境部分拡大


■これらの道を高精細の「本牧地所経営地」写真(下)で探してみると、今まで見過ごしていたそれらしい道筋が浮かび上がってきて、見事に一致します。驚いたことに『横浜実測図』には、白線で示した畝のジグザグな線までもが正確に描写されています。「実測図」だから当然と言えば当然ですが、正直言って、この地図がそこまで精密なものとは思っていませんでした。いずれにしても、「本牧地所経営地」の左上の集落の正確な場所が特定できました。現在の地番で言うと、最初の合流点は北方町 1 丁目 83 番地もうひとつの合流点は、写真では建物の陰に隠れていますが北方町 1 丁目 76 番地になります。

「本牧地所経営地」集落部分拡大


『横浜実測図』石垣のような畦道

■次に、撮影地点も特定しましょう。それには、最初に示した写真の中央に写っている石垣のような構造物が手掛かりになります。さきほど解明した道筋との位置関係から考えると、どうやらこの石垣状の構造物は、左の地図に示したあぜ道(画像をポイントすると青線で表示)に相当するようです。特徴のある几型をした田圃(青の点線部分)が、右の写真でも確認できます。

■また、写真右下に写っている民家の位置も畝をたどって特定できます(画像をポイントすると黄色の★)。この民家は写真全体のほぼ中央にあるので、撮影位置はこの家の上方ということになります。

「本牧地所経営地」石垣のような畦道


■以上のことから、あらためて『横浜実測図』に「本牧地所経営地」の撮影アングルを書き込んでみたのが右の図です。V 字の頂点が撮影地点になり、現在の地番では本郷町 3 丁目 290 番地です。『横浜実測図』ではその高台の上に道が描かれており、写真の撮影時点でもおそらく同様な道だったと思われますが、現在は個人の敷地に組み込まれています。その下を崖沿いにくねって続いている道が、1865 年(慶応元年)に外国人居留民のために造られた「遊歩道」です。

■写真の画角は約 35 度になりました。これは、これまでに縷々述べた対象物の写り具合と、写真右上の森を本牧十二天と判断して引いた線から導き出されました。別のページで述べますが、実は「本牧地所経営地」という写真はもう1枚あり、その撮影範囲もほぼこの角度に収まります。

『横浜実測図』撮影範囲と撮影地点


「本牧地所経営地」山手の洋館

この稿で使用した地図および写真は以下のとおりです。
・「本牧地所経営地」(横浜市中央図書館所蔵『横浜電気鉄道新線路写真帖』所収)
・明治14年『横浜測量図』(横浜市中央図書館所蔵)

■最後にもう一度「本牧地所経営地」の写真をご覧ください。左上の雑木林の奥に 2 つ、洋館らしいものが写っています(写真にカーソルを置くとそれらの拡大写真が表示されます)。これらは山手の東端、かつて「林町(はやしちょう)」と呼ばれたあたりの家です。位置および当時の Japan Directory (1911年版)の居住状況から考えて、右は山手 172 番地の E .S. Abenheim 夫妻宅と思われます。左は、位置的に山手 166 番地と考えられるのですが、Japan Directory にはその番地に居住者が記載されていないため、断言できません。

■ほかにも、2 つの建物の中間あたりをよく見ると、建物の一部か樹木か判断に迷うものが写っています。しかし、これ以上の解析は無理がありそうです。

■次のページ(現在作成中)では、上に述べた、もう1枚の「本牧地所経営地」の写真を解析します。 (2011年2月記、3月一部訂正)


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