2つの「山手隧道」


(2002/Feb)

(横浜市中央図書館所蔵「横濱復興誌(1932年3月刊)」より)
横浜市がまとめた関東大震災からの復興記録「横濱復興誌」で右上の写真を見かけたことがきっかけで、約70年を隔てた定点撮影を試みてみました。2つのトンネルが写っていますが、右側が明治44年7月に横浜電気鉄道(後の横浜市電)用に貫通した 276m のトンネル(当時の新聞記事には「本牧隧道」とある)、左側が関東大震災後の昭和2年に開通した 218.4m の「山手隧道」です。現在「本牧隧道」の正式名称は「第二山手隧道」で、古い方が「第二」の地位に甘んじていますが、その理由は後で述べます。私が子供の頃はどちらのトンネルも「山手トンネル」、「元町トンネル」、「麦田のトンネル」とずいぶんアバウトな呼び方をしていたように思います。なお、ここから見える左側のアーチは、実はトンネルの手前にある「桜道橋」という石造りの陸橋です。

麦田(桜道下)停留場と麦田車庫

ここには、昭和45年に横浜市電・本牧線が廃止されるまで、右の写真にあるように、「麦田」(明治44年から昭和3年までの名称は桜道下)の上り停留場がありました(下りの停留場はトンネルのすぐ手前)。通常の上り電車は、ここから右へカーブして右のトンネルを通って元町へ出ます。カーブからトンネルを出るまでは、横浜市電唯一の「電車専用軌道」で、人や車は通れませんでした。したがって、左側のトンネルを使う下りの自動車は右の写真中央に写っているクラシック・カーのように、電車の軌道を横切って本牧通りへ出ました。また、右の写真には左へカーブしている線路も見えますが、これは、写真のすぐ左にあった「麦田車庫」への引き込み線です。非常に複雑な交通路ですが、大きな事故が起きたという話は聞いていません。当時は、それだけ交通量も少なかったのでしょう。

「第二」トンネルの誕生

その後、太平洋戦争をへて、昭和30年代初め横浜市電は全盛期を迎えますが、高度経済成長時代とともに急速なモータリゼーションの波が押し寄せ、ついには昭和47年に完全廃止となります。これに伴い、市電専用トンネルも自動車や通行人に開放され、2つのトンネルは左が上り、右が下りの一方通行のペア・トンネルに生まれ変わりました。その際、かつての「本牧隧道」は「第二山手隧道」に改称されたというわけです(もったいつけて言うほどのことではありませんね)。ちなみに、「本牧隧道」と呼ばれたのは、ここを通る市電の名称が「本牧線」だったからだと思います。本牧は、ここからまだ1.5km余り離れていますが、このトンネルが開通したときは横浜の中心部から山越えをしなくても本牧へ出られるということで、だいぶ歓迎されたようです。そのためにこのトンネルをくぐれば、そこはもう「本牧」というような意識もあったのかもしれません。

それぞれのトンネルの詳細なウォッチングについては、下の写真をクリックしてください。勝手ながら個人的な好みで古い方のトンネルを「本牧隧道」と勝手に呼ばせてもらいます。(2005 年 9 月記、2011 年 1、3 月補記)

山手隧道(2002/Dec)

本牧隧道
(2002/Jun)
 
 


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