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震災直後の海岸通り

報時球とガソリン・スタンド

見覚えのある建造物が...

英七番館前

■これは関東大震災90周年にあたる2013年に海外のオークション・サイトから入手した写真です。裏面に書かれている「震災後の東京の街(A street in Tokyo after quake)」という鉛筆書きそのままに、東京の写真として出品されていました。

■しかし、左の奥に《報時球と思われる塔》がうっすらと写っており、右端の建物もどこかで見たような形をしています。中央遠方に見える不思議な形のものだけが疑問でしたが、実際にこの写真を手にして虫眼鏡で覗いてみたら、《手前から奥へ右斜め方向に架かった鉄橋》とわかりました。なお、このページでは、※《 》で囲まれたテキストの部分にマウス・カーソルを置くと画像が多少わかりやすくなります。

旧B&S社ビル ■つまり、これはかつての横浜の海岸通り、現在の山下公園通りを東に向かって写した写真であり、鉄橋は堀川に掛かった山下橋、右端の建物はかつての英七番館の地(山下町7番地)に現在「戸田平和記念館」として部分保存されている旧バターフィールド&スワイヤー社(Butterfield & Swire)のビルなのでした(右の写真)。

報時球の正確な位置は...

■報時球は、「震災直後の谷戸坂」のページでも触れたように、港内の船舶に正確な正午の時報を伝えるために明治38年から本格運用されていた施設です。所在位置は明治43(1910)年発行の『神奈川県港務部要覧』(横浜中央図書館所蔵)によると、当時の「フランス波止場」(震災後の復興事業で山下公園に組み込まれました)内の北緯35度26分40秒988(35.444719度)、東経139度39分0秒330(139.650092度)です。

■ところが、この経緯度を Google Map や国土地理院の Web サイトで調べると、現在のホテル・ニューグランド本館とスターホテル横浜の間の道路上となり、「フランス波止場内」、つまり現在の山下公園内という記述に合わないばかりか、海岸通りよりも内陸側(南側)にあったことになってしまいます。まさか関東大震災で陸地がそんなに海側へ伸びたわけでもないでしょうから、これは当時の測量技術と現代の GPS の精度の違いによるものなのか、理由は今もって謎のままです。

■なお、報時球は震災後、大桟橋入口の現在「横浜第二港湾合同庁舎」の建っている場所へ移設され、その後、電波による時報の普及もあって廃止されました。廃止時期ははっきりしませんが、少なくとも昭和7年に横浜市から発行された「横浜市三千分の一地形図には、まだ所在が明記されています。

報時球の絵葉書に見る海岸通り

■次の絵葉書は、フランス波止場の報時球と海岸通りの遊歩道を写したものです。撮影した方向は上の写真と同じで、広い車道を海側(左側)へ進んだところで撮られています。カップルがたたずんでいる場所から先の海が、震災後に埋め立てられて山下公園になります。現在の「山下公園通り」は、震災前に6間(約11m)あまりだった「海岸通り」を海側へほぼ倍の12間(約22m)に拡張したものと記録されています。上の震災直後の写真にある道路が、ちょうど、この絵葉書の人留めの手摺りの位置まで拡張されたということなのでしょう。ただし、この数字には歩道や植樹帯の分が含まれており、車道自体の実際の拡張幅は右の松林までぐらいだったと推定されます。

横浜海岸絵葉書

同じ松の木?

■ここで2つの画像を比べていたら、大変面白いことに気付きました。この絵葉書の《右端に写っている松の木》と、《最初の震災画像に写っている松の木の1本》が、非常によく似た幹の曲がりかたをしているのです。それぞれの画像で、木の天辺から幹のカーブをたどってみてください。

■絵葉書は、裏面の仕切り線から考えて、明治40(1907)年〜大正7(1918)年に作成されたと思われます。となると、撮影時期も大正12(1923)年の震災写真とそれほど時間的な隔たりはありません。断定はできませんが、この限られた場所にそう何本も同じような松の木があるとも考えにくいので、同じ木である可能性は高いように思われます。

海岸通り8番地

震災直後の8番地

■さて、最初の画像に戻って、右端がバターフィールド&スワイヤー社の建物だとすれば、《その左に写っている建物は海岸通り8番地》ということになります。Japan Directory によると、震災時の8番地はアメリカのスタンダード・オイル社(Standard Oil Co.)です。

■実は、スタンダード・オイル社の震災直後の様子を別角度から撮った写真が存在することを最近知りました。その写真は、震災時にイギリス海軍から派遣された救援鑑の乗組員のものと思われるアルバムに載っており、その手書きのキャプションには「Petrol Station on the Bund(海岸通りのガソリン・スタンド)」と書かれています。

■また、その写真には、8番地の2階建て?のビルの手前に平屋建ての簡素な建築物があり、海岸通りからその建物まで自動車を乗り入れて、そのまま通りへ出られる車寄せのようなロータリー構造が写っていました。たしかにそれなら「ガソリン・スタンド」のイメージです。残念ながらその写真は入手できなかったため、ここに示すことができませんが、最初に示した画像にも《その平屋建ての建物》が捉えられているので、下にその部分の拡大画像を示します。

PetrolStation

■この画像を見ただけではロータリー状の構造はまったく想像できません。そのような構造があるとすれば、《左側に2本並んでいる横縞模様の柱》の間がその入口と思われます。ただ、撮影角度のせいもあるのでしょうか、車が通るには少し狭すぎる感じがします。

震災航空写真

震災直後の航空写真から

■そこで別の手掛かりがないか、震災直後に撮影された『横濱震災航空写真帖』(横浜市中央図書館所蔵)を調べてみました。この写真帖は「激震と大火に耐えて」のページなどでも紹介しましたが、それに収められている1枚に、右のように港と横浜の中心部が写っています。

■この航空写真は上が北東方向で、黒く写っているのは海面です。左上へ斜めに海に突き出ているのが震災で破壊された大桟橋、それと直行して海岸をまっすぐに走っているのが海岸通りです。このページに示した震災画像と絵葉書の画像は、どちらもこの航空写真の左下(西)から右上方向(東)に向かって撮影されたものです。

■問題になっている地点は《フランス波止場に至るこのあたり》になります。その部分を次に拡大してみましょう。なお、黄色で表示されるオーバーレイはこのサイトでの加工です。

震災航空写真

横浜中央図書館所蔵「横濱震災航空寫真眞帖」より

■番地を特定するため、まず写真に「東波止場」と記入されている《フランス波止場》を目安とします。《報時球》は、正確な経緯度には疑問があるにしても『神奈川県港務部要覧』の地図からフランス波止場の西の突堤にあったことは明らかであり、上に示した絵葉書や、この航空写真の映像から O がそれではないかと推定されます。ただし、この位置は《『神奈川県港務部要覧』の図で示されている位置(X)》とはやや異なります。

《フランス波止場の西突堤の西端あたりで海岸通りにほぼ直交する道》は、居留地時代に《「前橋町」と呼ばれた通り》)で、これが海岸通り8番地と9番地の境にあたります。8番地から左下(西側)へ海岸通りをたどってみると、ちょうど8番地と7番地のところに《アルファベットのPを寝かせたような形の白い部分》が見えます。その半円状の部分が、どうも上に述べたロータリー構造のように思われます。

■また、そもそもこの白く写っているものが何かと考えて、あらためて海岸通り7番地のバターフィールド&スワイヤ社の写真を見てみると、同社のビルのエントランスから8番地のほうに向けて道路が舗装されているようです。手前の6番地側の歩道は、まだ土がむき出しのように見え、その違いは次の部分拡大画像からも、はっきり見て取れます。

舗装道

■バターフィールド&スワイヤ社のビルが建てられたのは震災の前年、大正11(1922)年です。また、日本でのガソリン・スタンドの初めは、Wikipedia などによると、そのわずか3年前の大正8(1919)年とされており、震災当時、ガソリン・スタンドは非常に新しい商業施設でした。横浜でのガソリン・スタンドの初めについては諸説あるようですが、このスタンダード・オイル社のガソリン・スタンドも開設されてからあまり日が経っていないところで震災に見舞われたのかもしれません。ここだけ歩道が舗装されていたのは、そうした新しい一画だったからでしょう。

■その新しい一画も、震災後の山下公園と海岸通りの整備工事によって面目が一新されます。この「ガソリン・スタンド」がどうなったのかは、私の調べの及ばないところです。(2016年7月記)


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