山手桜道低徊(1) |
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■山手の桜道は、私の生家から歩いて5分ほどしか離れていません。しかし、子供の頃にこの道を歩いた記憶はほとんどありません。本牧から関内方面に行くには、麦田の市電のトンネル(現在の正式名は「山手第2トンネル」)かそのすぐ西側の山手トンネルを抜けていくのが当たり前のことになっていたからです。そもそも、山越えをして関内方面に出るという発想自体がありませんでした。 ■しかし、明治の末、山手に初めてのトンネルが開かれるまで、桜道は開港場の賑わいを見せる「横浜」と半農半漁の本牧村を結ぶ唯一の物資輸送路でした。また、幕末に居留外国人のために開かれた遊歩道の一角でもありました。そうした故事に触れてからはなおさら、桜道がまだ私の知らない多くの不思議を秘めた異郷のように思えて、歩くたびに高揚感を覚えます。 |
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桜道の長手積み |
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トンネル開通後のブラフ積み■この写真の約半年後、トンネルが完成し、1911(明治 44)年 12 月に横浜電気鉄道本牧線が開通します。その際に同じ場所から撮られた写真が次の写真です(なお、これらの写真のキャプションでは「東口」となっていますが、実際の方角は南面になります。電気鉄道本牧線が主に現在の本牧通りを東西に走るため、トンネルの元町側を「西口」、本牧側を「東口」と見立てたのでしょう)。 |
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■このブラフ積みの石積みは、現在も一部残っています。撮影の時期と角度を少し変えて2枚の写真を載せます。「隧道東口」の写真よりやや左側から眺めています。正面は木の根が張って石積みが崩れていますが、横面にブラフ積みの痕跡を見ることができます。当時の姿のまま、一度も積み直されていないような感じがします。 |
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「イリス商会」社主邸跡のブラフ積み■桜道をさらに上ると、古い石積みはすべてブラフ積みになります。近年の宅地開発によって撤去されたものも少なくありません。しかし、明治 40 年代にドイツ系商社「イリス商会」の社主が私邸を構えていた場所に、古色を残す正統派のブラフ積みが残っています。 ■その後、この土地は関東大震災までドイツ人社交機関「クルプ・ゲルマニア」の所有になります。第一次世界大戦(1914-1917 年)で敗戦国となり、資産を制限された「クルプ・ゲルマニア」はなけなしの資金をはたいてこの場所を買い入れ、在日ドイツ人の復興の便に供してきましたが、その建物も 1923 年の関東大震災で失われました。現在、この土地は日本の国の資産となっているようです。
■桜道の歴史を明治初めまでさかのぼると、さらに興味深い2枚の古写真に行き着きます。実を言うと、ここまでの話はその前置きで、それらの写真こそがこの「山手桜道低徊」の本題です。以下のページで、それらの写真を改めてご紹介することにします。「山手桜道低徊(2)」に続きます。
(2013年8月記) |
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