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山手桜道低徊(1)

「横浜山手桜道」

絵葉書「横濱山手櫻道」より

■山手の桜道は、私の生家から歩いて5分ほどしか離れていません。しかし、子供の頃にこの道を歩いた記憶はほとんどありません。本牧から関内方面に行くには、麦田の市電のトンネル(現在の正式名は「山手第2トンネル」)かそのすぐ西側の山手トンネルを抜けていくのが当たり前のことになっていたからです。そもそも、山越えをして関内方面に出るという発想自体がありませんでした。

■しかし、明治の末、山手に初めてのトンネルが開かれるまで、桜道は開港場の賑わいを見せる「横浜」と半農半漁の本牧村を結ぶ唯一の物資輸送路でした。また、幕末に居留外国人のために開かれた遊歩道の一角でもありました。そうした故事に触れてからはなおさら、桜道がまだ私の知らない多くの不思議を秘めた異郷のように思えて、歩くたびに高揚感を覚えます。

■ここでは、明治時代初期と末期に撮影された 4 枚の古写真を中心に、そうした桜道の不思議を訪ねてみたいと思います。現在、桜道には全長約 500 メートルの中に3本のトンネルが通っています。しかし、そのほかに過去への「タイム・トンネル」が思いがけないところにぽっかりと口を開けています。まずは、いまの桜道を本牧側からたどって見ることにしましょう。
桜道入口

桜道入口(2003/Mar)


桜道の長手積み

■右は、1870(明治3)年に外国人専用の公園として開園した山手公園に沿って見られる「長手積み」の擁壁です。「長手積み」は山手では少数派の擁壁です。「長手積み」はすぐ近くの古刹・妙香寺の石垣や、ブラフ積みの下層に残っていたりします。鎌倉などでもよく見られるオーソドックスな積み方なので、こうした擁壁はブラフ積みより時期的に古いと言えるのではないかと私は考えています。

■その裏付けの1つになるかどうかはわかりませんが、明治末年に横浜電気鉄道(のちの横浜市電)のトンネルが開削されたときの工事写真に、この石積みの延長と思われる「長手積み」が写っています。

桜道の長手積み

(2009/Feb)

本牧トンネル工事

「隧道工事」(東口掘削開始)
『横浜電気鉄道新線路写真帖』(横浜市中央図書館所蔵)所収

■工事用の仮橋の橋脚の間から、旧来の桜道の擁壁が覗いています。下に拡大してみました。長手積みがお判りになるでしょうか。これはトンネル工事が始まって間もない 1911(明治 44)年5月初旬の撮影と思われます。(下の写真にマウス・カーソルを置くと、左の写真の該当部分が黄色の線で示されます。)
トンネル工事拡大写真

トンネル開通後のブラフ積み

■この写真の約半年後、トンネルが完成し、1911(明治 44)年 12 月に横浜電気鉄道本牧線が開通します。その際に同じ場所から撮られた写真が次の写真です(なお、これらの写真のキャプションでは「東口」となっていますが、実際の方角は南面になります。電気鉄道本牧線が主に現在の本牧通りを東西に走るため、トンネルの元町側を「西口」、本牧側を「東口」と見立てたのでしょう)。

■あいにく、この写真からは前に示した長手積みの擁壁はトンネルの坑門構造の陰になって確認できません。しかし、そのすぐ上に位置すると思われる別の擁壁が写っています。

■これは長手と小口が交互に並ぶ「ブラフ積み」になっています。トンネル完成に合わせて積まれたのでしょうか、真新しい感じがします。

ブラフ積み拡大
トンネル開通後

「隧道東口」
『横浜電気鉄道新線路写真帖』(横浜市中央図書館所蔵)所収

■このブラフ積みの石積みは、現在も一部残っています。撮影の時期と角度を少し変えて2枚の写真を載せます。「隧道東口」の写真よりやや左側から眺めています。正面は木の根が張って石積みが崩れていますが、横面にブラフ積みの痕跡を見ることができます。当時の姿のまま、一度も積み直されていないような感じがします。

Bluff#30 のブラフ積み

横面(2009/May)

Bluff#30 のブラフ積み

正面(2013/Jul)

「イリス商会」社主邸跡のブラフ積み

■桜道をさらに上ると、古い石積みはすべてブラフ積みになります。近年の宅地開発によって撤去されたものも少なくありません。しかし、明治 40 年代にドイツ系商社「イリス商会」の社主が私邸を構えていた場所に、古色を残す正統派のブラフ積みが残っています。

■その後、この土地は関東大震災までドイツ人社交機関「クルプ・ゲルマニア」の所有になります。第一次世界大戦(1914-1917 年)で敗戦国となり、資産を制限された「クルプ・ゲルマニア」はなけなしの資金をはたいてこの場所を買い入れ、在日ドイツ人の復興の便に供してきましたが、その建物も 1923 年の関東大震災で失われました。現在、この土地は日本の国の資産となっているようです。

Bluff#4のブラフ積み
Boemer_haus

■クリックすると拡大できます。
(2007/Mar)

■ほかにも、この桜道界隈はドイツとのつながりが深い場所です。さきほどのトンネル上のブラフ積みとこことの間には、明治 10 年代から第 1 次世界大戦の頃まで、植物の輸出入、特に百合根の輸出で知られる「べーマー商会」というドイツ系商社がありました。また、そこから山手の本通りへ上ったところには、後にドイツ人のための学校兼教会「ドイツ・ハウス」が建てられたこともあります。

■右はベーマー商会の故地で見かけたレンガ造りの建物?の残滓。残念ながら、現在はその上に根を張っていた古いタブノキもろとも撤去され、住宅地となっています。

Boemer_haus

(2009/Feb)

■桜道の歴史を明治初めまでさかのぼると、さらに興味深い2枚の古写真に行き着きます。実を言うと、ここまでの話はその前置きで、それらの写真こそがこの「山手桜道低徊」の本題です。以下のページで、それらの写真を改めてご紹介することにします。「山手桜道低徊(2)」に続きます。
(2013年8月記)

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