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山手桜道低徊(3)終章

第四の古写真「山手天沼」

■十年ほど前に開設された、長崎大学付属図書館の「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」という Web サイトに、「山手天沼」(クリックすると別ページにこのサイトが開きます)という写真が公開されています。

■その写真の解説に「現・山手公園から撮影したもの」とありますが、Web 上では画像の解像度が低いため、遠景の建物などがはっきりしません。また「山手天沼」というタイトルから、私はずっと、この写真はもっと北方(きたがた)寄りのところから撮られたものだろうと考えていました。左下に写っている民家と道との段差があまりないことや、道が左へ蛇行しながらいったん下っているように見えることからも、山手公園に接する桜道とは必ずしも言い切れないのではないかと思っていました。

■ところが、今年の初め、思いがけず横浜の古写真収集家《KNC》さんから、この写真の現物を見せていただく機会がありました。その細部を確認したところ、撮影された場所を特定する貴重な手掛かりが写っていました。《KNC》さんのご厚意によりその部分を掲載させていただきます。右の全体写真の黄線で囲んだ個所を拡大したものです。
「山手天沼」拡大写真

「山手天沼」《KNC》

「山手天沼」拡大写真

「山手天沼」《KNC》部分

■前のページ(「山手桜道低徊(2)」)に載せた「山手の外国人住宅」写真には「右端に井戸が見える」というキャプションが添えられていると書きました。それと同じ井戸らしきものが、この「山手天沼」の写真に写っているのです。前行の太字部分にカーソルを置くと黄色の線で確認できます。

■井戸だけなら珍しいものではありません。しかし、そこから道に沿って緩やかに下ってゆくフェンスとその左端にある出入口らしきもの、そして道から少し奥まったところにあるなまこ壁の家も写っています。なまこ壁の家は2軒確認でき、「山手の外国人住宅」のなまこ壁の家がどちらなのかは特定できませんが(おそらく右)、これらの構造物の存在と位置が偶然に一致することは、あまり考えられません。また、道がこの写真の左端あたりから緩やかに登っていく様子からも、これらは「山手の外国人住宅」と同じ場所を異なる角度から写したものと言ってよさそうです。

外国人住宅・部分

「山手の外国人住宅」(横浜開港資料館所蔵)部分

■左の写真で確認できます。

井戸

フェンスと出入口

なまこ壁の家

「天沼(あまぬま)」という字名は、大正期以降の地図でも広く妙香寺の谷戸や山手居留地との境(桜道入口)までを含んでいます。単純に麒麟麦酒工場があったあたりと狭く考えていたのは私の間違った思い込みでした。ただ、「山手天沼」の写真は、山手公園から撮影したものとするより、桜道自体から撮ったと考えたほうが自然です。また、写っている人物は箒を携えており、「物売り」というより、道路管理者である県からの委託を受けて公務として道路を保守している清掃員のように見えます。

山手天沼の人物

「山手天沼」《KNC》部分

撮影時期は明治13〜15年

■「山手天沼」写真の撮影時期については、『神奈川県史料』(神奈川県立図書館編)に確実な手掛かりとなる記述が残っています。それによると、桜道の南崖は降雨の度に崖下の畑地に土砂が流れて苦情が出たり馬車の通行に危険があったため、1880(明治 13)年に「土抱板柵」が設けられました。しかし、それでも「漸次朽腐」したため、1882(明治15)年6月に、山手1番館下から 31 番館下まで「土留石垣」を設ける工事の施行指令が内務省から出されています。「山手天沼」の写真に写っているのは明らかに「土抱板柵」ですので、この写真は明治 13 〜 15年に撮影されたものと推定できます。また、この記事から、「山手桜道低徊(1)」で示した長手積みの石垣は、明治 15 年の工事で造られたものまでさかのぼることができる可能性も出てきました。

土留め板柵

「山手天沼」写真に見られる"土抱板柵"

井戸はどこへ行った?

■さて、それでは「山手の外国人住宅」と「山手天沼」の2枚の写真を結びつけた井戸の正確な位置はどこなのでしょうか。また、井戸はまだ残っているのでしょうか。

「山手桜道低徊(2)」で述べたように、井戸は 30 番地の東端になります。そこで(1)のページで示した本牧トンネル開通直後(明治末年)の写真を再度見てみると、該当するあたりに小屋の屋根のようなものが見えます。井戸の雨よけ屋根にしては少し大きく、一軒家にしては小さすぎます。ここには掲載できませんが、この小さな屋根は同時期の絵葉書にも写っており、他の家屋と比べてその「小ささ」も確認できます。

隧道東口

「隧道東口」
『横浜電気鉄道新線路写真帖』(横浜市中央図書館所蔵)所収

隧道東口

■左の黄枠の部分。
マウス・カーソルを置くと
問題の屋根が黄色の線で
示されます。

■それからさらに時代を 70 年近く下った昭和 53 年の住宅地図を見ると、ちょうどこのあたりに「温室」の記載があります。また、すぐ東隣の 31 番地は「農林省横浜植物防疫所」の宿舎となっています。植物防疫所と温室、そして井戸との関係はわかりませんが、何かの結び付きがあってもおかしくない感じがします。ただし、この稿を起こすに当たって近くにお住まいの方に尋ねた限りでは、井戸も温室も現在は残っていないようです(詳しい調査をしたわけではないので残存する可能性がなくもありませんが)。また、28 番地にあった園芸貿易商社「ベーマー商会」と植物防疫所との間にも、何か関連があるかもしれません。これらの不思議の解明は今後に持ち越しです。

40 年後のスペイン公使館?

■もうひとつ、この本牧トンネル開通直後の写真には、びっくりするようなものが写っています。次の2枚のクローズアップをごらんください。

山手35番館明治末年

山手35番館明治初年

■左が『新線路写真帖』、右が「山手の外国人住宅」からの拡大写真です。場所は「山手桜道低徊(1)」で述べたように、明治初年にスペイン公使館があった山手 35 番地。独特のデザインの屋根が同じもののように見えます。また、左は一見、こちら向きの面に窓がなさそうですが、よく見ると雨戸が閉じてあるか、はめ殺しにしてあるようです。さらに、この建物は二階建てで、トンネル開通直後の限られた一時期にこの付近を撮影した絵葉書画像にも写っており、建物の構造自体も右のスペイン公使館に酷似しています。2つの写真の間には約 40 年の時間差がありますが、木造の建物でもそれくらいの期間を耐えることは十分に可能です。これらは同じ建物なのでしょうか。興味が尽きません。

100 年を経て

■最後に、1911(明治44)年 12 月の横浜電気鉄道本牧線開通直後と 2011(平成23)年 12 月現在の「本牧隧道」脇のブラフ積み擁壁の姿をご覧ください。この間に流れた時間がちょうど 100 年です。

トンネル明治末年

■このブラフ積みを私も、私の父と祖父の世代も、そして私の子供や孫の世代も見ていることになります。おそらく、その誰もが現在、また将来、この古びた石積みを見て、懐かしさを覚えるのではないでしょうか。私は常々、親と子と孫が見る景色が同じだからこそ、生まれ故郷への愛着が生まれ、伝えられていくのだろうと思っています。
(2013年8月記)


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