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山手桜道低徊(2)

桜道の外国人住宅群

「山手の外国人住宅」(横浜開港資料館所蔵)

■これは、1873(明治6)年4月に横浜で発刊された英字紙『The Far East』に添付された写真です。ただし、ここに転載したのは平成 19 年に有隣堂から出版された『文明開化の横浜・東京』(横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編)に掲載されているものです。「山手の外国人住宅」というタイトルが付いていますが、同じ写真はすでに昭和 45 年に、やはり有隣堂から刊行された『神奈川の写真誌・明治前期』で「西山の手の後方で」として紹介されていました。私が初めて見たのは、いまから 30 年も前になります。

■このような俯瞰写真に収めることができる場所は桜道以外にないことは、地形からすぐにわかるのですが、桜道では明治末年に横浜電気鉄道のトンネル、関東大震災後に山手第1トンネル、さらに昭和 39 年開通の国鉄(当時)根岸線のトンネルと、3本のトンネル工事が行われており、地形が現在と大きく変わっている可能性もあります。

新しい写真からの新しい手掛かり

■しかし、この「山手の外国人住宅」の写真には、昭和 45 年の写真では識別できなかった、あるものが写っています。それは、右上端に写っている背の高い建物の屋根から突き出ている長い柱です。以前の写真では、印刷技術が未熟だったのか、この柱が白く飛んでしまっていました。

■建物に比べて尋常でない高さのこのような柱は、当時の外国公館や日本の官庁、あるいは外国商社の建物によく見られた旗竿と思われます。山手という土地から考えれば、外国公館の国旗掲揚柱の可能性が最も高そうです。それともうひとつ、新しい写真には「右端に井戸が見える」というキャプションが添えられています。これが後にまた別の事実に至る重要な手掛かりになるのですが、ここでは、国旗掲揚柱の話から進めましょう。

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前掲写真の部分拡大

どこの外国公館か?

■問題の柱が外国公館の国旗掲揚柱と仮定して、明治6年前後の桜道付近にあった外国公館を探すと、「横浜明細之全図」(明治3年)、「横浜弌覧之真景」(明治4年)、「改正新刻横浜案内絵図」(明治5年)など多数の絵地図から、アメリカ公使館スペイン公使館が見つかります。次の図は横浜中央図書館所蔵の「横浜明細之全図」を拡大したものです。右下に元町の通りと「西之橋」が描かれており、左上の「駒カケ場」は慶応2年(1866 年)に開設された根岸の競馬場です。その間の山の上にあるのが山手本通りです。この通りに面して向かい合わせに「伊斯巴?(にんべん+尓の字)役館」(スペイン公使館)と「亜役館」(アメリカ公使館)の文字が見えます。

横浜明細之全図(明治3年)

『横浜明細之全図』(横浜中央図書館所蔵)部分

■右は番地入りの地図です。山手三十五番、廿七番、四十七番の3個所に赤い印がついています。この赤印はこの頃の絵地図で外国公館を表すために使われています。このうち 47 番は桜道側(図の左上側)からは死角になるので除外してよさそうです。

■また、アメリカ公使館については横浜都市発展記念館の紀要 No.1(2005年)で所在地が山手 27 番地だったことが詳しく考証されています。このため、国旗掲揚柱が写っていた家は「スペイン公使館」以外に考えられません。山手 35 番という位置も写真の位置関係と矛盾しません。

■念のため調べてみると、Japan Directory の 1872 年(明治5年)版に山手 35 番地の住人として "Rodriges y Monoz" の名があります。一方、同じ年に「ヘブレヲ・ロドリゲ・ジェ・ムノズ」という「西班牙代理公使」が「横浜に於いて」と記して日本の外務書に出した書簡が残っています。スペイン公使館がいつから山手 35 番地にあったかを確認できる資料を見つけることはできませんでしたが、1880(明治13)年版の Directory までは山手 35 番地、翌 1881 年版で山手 243 番に移転しています。これで、文献からも問題の家は山手 35 番地のスペイン公使館と確認できます。

改正新刻横浜案内絵図(明治5年)

『改正新刻横浜案内絵図』
(横浜中央図書館所蔵)部分

■ちなみに、日本とスペインの外交関係は 1868 年(明治元年)に「修好通商航海条約」締結、1870 年(明治3年)に批准書交換が行われましたが、その後スペインでは革命が起こり、1874 年(明治7年)まで国内の混乱が続いていました。写真の公使館はその本国の動乱期のものということになります。

地番の追究

■そこで、あらためて写真に戻り、スペイン公使館の位置から手前に並んで写っている家々の番地を確認しようと思います。少し時期が後になりますが、1881(明治 14)年の「横浜実測図」を見てみましょう。

横浜実測図(明治14年)

『横浜実測図』(横浜中央図書館所蔵)部分

■前の絵図と違って、上を北にしてあります。右下が山手公園、上下の通りにはさまれて鳥の頭のような格好になっている嘴の部分が山手 1 番地になります(地図の上にカーソルを置くと番地が表示されます)。北側の太く描かれている道が山手本通りで、下の太い道が桜道です。それらに挟まれた細い道は明治 17 年以降「撞木町(しゅもくちょう)」と呼ばれる通りです。桜道沿いの番地は、右上にあるスペイン公使館(35 番地)の下(南側)が 31 番地、そこから左(西側)へ 30、29、28 番地と並んでいます。その西側に桜道から山手の本通りへ上る坂をはさんで番地が飛び、5番地、4番地と続きます。「山手の外国人住宅」の写真に収まる可能性があるのは、そこらが限度でしょう。

■もうひとつ、同時期の地図として明治 15 年に日本陸軍が作成した2万分の1の測量図が国土地理院に残されています。この地図は建物の輪郭が描かれている点が特長です。刊行されている複製の該当部分を拡大してトレースしてみました。建物を青の線で囲い、地形を表す線を茶色にしてあります。かなり無理な拡大なので細部の正確さは保証できませんが、桜道沿いに家が並んでいるのは 31 番地から 28 番地までであることがわかります。スペイン公使館は青で塗りつぶした建物でしょうか。

フランス式彩色地図(明治15年)

■これらの地図と写真を突き合わせてみると、桜道沿いの建物のうち、右端の井戸から最初のフェンスまでの敷地が 30 番地のように思われます。31 番地とするには、スペイン公使館から離れすぎています。次にその左隣、29 番地と思われる敷地に目を移すと、最初のフェンスから桜道への出入口を挟んで2番目のフェンスまでの区画は 30 番地に比べてかなり狭く仕切られています。一方、実測図では 30 番地から 28 番地まではほぼ同じくらいの間口で区切られており、面積も 30 番が 644 坪、29 番地 611 坪、28 番地 639 坪とほぼ同じです。となると、29 番地はさらに先の、背の高い板囲い?のようなフェンスまで続いていると考えた方がよさそうです。そして、その先のまだ家の姿が見えない場所が 28 番地とすると、各区画がバランスよく分割できます。結局、この写真は左端が 28 番地で、それより西側(5番地、4番地)は写っていないことになります。

桜道地番

■区画のバランスだけでなく、29 番地の奥まった家は、先のトレース図の家の配置にも合うように思えます。また、桜道が左(西)へ行くつれてわずかに上り勾配になっている点は、地形が当時と変わっていないとすれば、現在の桜道の勾配にもよく似ています。さらに、もう少し時代が下った時期の Japan Directory では、28、29、30 の 3つの番地のうち、29 番地だけが 29 番地と 29-A 番地に細分化されています。前述の2番目のフェンスは、それと何か関係があるのかもしれません。なお、関東大震災後に山手(第1)トンネルが造られたとき、トンネルと桜道橋の間の大きく掘り起こされた部分が 29 番地の西側部分にあたります。

撞木町通りとなまこ壁の家

■この写真でもうひとつ興味深いのは、まだ家が一軒も建っていない「撞木町」通りです。ここは山を削って宅地を造成したばかりのようです。下の写真の中央の山肌がざっくり垂直に切り落とされています。残念ながら左端は家の屋根に隠れて見えませんが、道はそこまで途切れなく続いています。28 番地とその西隣の5番地の間には、山手本通りに向かって登る坂がありますが、この写真にはそれらしいものは写っていません。これも左端が 28 番地とする傍証になるかもしれません。右下の 29 番地奥に「なまこ壁」の家があることも覚えておいてください。

撞木町となまこ壁

■次のページでは、最初に少し触れた「井戸」に話を進めます。「山手桜道低徊(3)」に続きます。
(2013年8月記)


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