震災直後の山手遠景関東大震災前後の「定点」撮影に見る震災の爪痕 |
||||||||
2枚の遠景写真■次に示す写真は、「激震と大火に耐えて」のページに一部分を掲載した、関東大震災後の山手の遠景写真です。撮影地点は、そのページにも書いたように吉浜橋上と思われます。右側に写っている煙は当時ここにあった石炭置き場からのものです。この火災は「四、五十日の永い間も炎々と燃え盛っていた」といいます。細部を見てみると、それほど後ではなく、震災直後の撮影と言ってもよさそうです。吉浜橋は、地震によって「前後缺陥」の損傷を受け、応急修理されたのが9月 12 日です。撮影者は、まだ壊れたままの橋の上から危険を冒してこの写真を撮ったのでしょうか。
|
||||||||
■同じようなアングルで撮影された関東大震災前の写真が次の写真です。 ■こちらの写真は、大正 10 年(1921 年)から震災までの約2年間に撮られたものです。その理由はあとで説明します。まん中に写っている橋は、前の写真の撮影地点である吉浜橋です。したがって、この写真の撮影場所は、吉浜橋からひとつ下流に架かっていた花園橋上ということになります。これら2枚の写真は、どちらもほぼ絵葉書大で、裏面に同一の筆跡による英語でそれぞれの写真の下に示したような説明が記されています。しかし、撮影者など、詳しいことは判りません。日本国内では流布していない写真なので、横浜に居住していた米国人か英国人、それも在日領事館の関係者が撮影したのかもしれません。 ■これらの写真を例によってデジタル画像にして拡大すると、思った以上に豊富な情報が浮かびあがってきます。以下で主要な部分を拡大し、関東大震災の爪痕を確認してみます。 2つの「西の橋」■震災後の山手とそのふもとの状況です。少し見づらいですが、左端に「西の橋」のトラス鉄橋、その右側、コンクリート製の橋脚が見える橋が同じく「西の橋」の「電車専用橋」です。それらの背後はハゲ山状態になっています。ここに軒を連ねていた建物はことごとく崩壊しました。すさまじい地滑りの様子が見て取れます。その下にあった元町の商店街は、この土砂崩れと火災で壊滅しました。元町の名所だった「百段階段」も土砂に飲み込まれましたが、この写真の被写域からは外れています。右端に1棟だけ姿をとどめている洋館が「激震と大火に耐えて」のページで紹介した旧オウストン邸の山手 48 番館です。 ■2つの橋の部分をさらに拡大してみましょう。山肌がそげ落ちている様子や人々の姿が生々しく感じられます。
失われた家並み(その1)■丘の上の震災前の家並みと比較してみましょう。2つの写真は少しアングルが異なるのですが、山手 48 番館を目安にして、震災の前と後の映像を切り出してみました。わかりやすいように主な建物と目印に番号を付けてあります(写真の上にカーソルを置くと番号の表示が消えます)。 (1)私立横浜高等女学校(「汐汲坂のなまこ壁校舎」のページを参照)、(2)レッツ・ビルディング、(3)フェリス和英女学校・東校舎、(4)フェリス和英女学校の???、(5)フェリス和英女学校・南校舎、(6)ユニオン教会、(7)桜山ホテル、(8)山手 48 番館(旧オウストン邸)、(9)桜山ホテルの残骸、(10)西野坂、(11)汐汲坂 ■震災前の写真は、丘の上の建物から撮影時期を明治末年以降と推定できますが、もう少し絞り込めないかと思って注目したのが(4)の建物です。この建物は、「フェリスの風車」としてよく知られている揚水用の風車があったところに建っています。
失われた家並み(その2)■次に山手 48 番から南側の光景を切り出してみます。
(1)桜山ホテル、(2)桜山ホテルの別棟、(3)山手 47 番館、(4)カトリック教会、(5)元街尋常高等小学校、
(6)つつじ坂、(7)トンネル擁壁、(8)チェリー・マウント・ヒル(桜山) ■よく見ると山手 48 番館だけでなく 47 番館も焼失は免れていますが、2階部分が失われているようです。その右の方にある双塔のカトリック教会 (4)(明治 39 年(1906 年)に山下町から移転)は完全に姿を消しました。中央の谷の部分にいくつか階段状の擁壁のようなものが見えます (6)。上から崩れ落ちた建物かもしれません。このあたりは「つつじ坂(土方坂)」になります。ここには、いまも傾斜したブラフ積み擁壁が見られます(「山手震災痕めぐり・チェリー・マウント・ヒル跡」参照)。その右側にひときわ大きなコンクリートの擁壁 (7) がありますが、これは本牧隧道(現「山手第2トンネル」)を保護するための擁壁で、ちょうどこの下にトンネルの元町口が位置します。 ■震災後の方の写真は、さらに南側の光景が写っているので、少し引いて全体を眺めてみましょう。 ■こんもりとしたチェリー・マウント・ヒルの裾にいくつか焼け残った屋根が見えます。そこから右上に向かって「つつじ坂」(この文字の上にカーソルを置くと黄色の線で表示)を上ると、元街小学校があったわけですが、そのあたりは白っぽい焼け跡と化しています。トンネル擁壁 (7) の上に引っかかっている残骸は、崩落した校舎でしょうか。大正 12 年(1923 年)9月1日の震災発生当時、元街小学校では子供たちは始業式を終えてすでに帰宅していましたが、校舎は全壊して焼失し、教員 2 人が犠牲になりました。そのひとりについては「発狂・死亡」という痛ましい記述が残されています。 失われた河岸の光景■震災前の写真には、この後に襲いかかった大災害を予想すらできない、のどかな河岸の光景も写っていました。最後は、その部分の拡大です(画像の上にカーソルを置くとさらに拡大できます)。ここは扇町と寿町の1丁目にあたります。右端の女性と背負われている子供は無事に震災を切り抜けることができたのでしょうか。(2014 年 2 月記) |
||||||||
|戻る| |目次へ| |
Copyright(c) 2011, 2014 fryhsuzk. All rights and wrongs reserved. ---- ご意見・ご感想は まで |