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山手震災痕めぐり

第3番札所

マーテン邸跡のブラフ積み

千鳥坂のある神奈川近代文学館前庭から山手 111 番館のブラフ積みを右に見て、まっすぐな一本道を谷戸坂通りに出ます。山手 111 番館は、震災時に横浜港内で文字通りの火の海からフランス貨客船を救い、レジオン・ド・ヌール勲章を受けた船具商トーマス・ラフィン Jr.の兄の居宅として紹介されていますが、震災時のラフィン家は、谷戸坂通りに出て左へ行ったところにある 120 番地が本拠でした。幕末に英国公使館/書記官邸があった敷地の一画です。ちなみに、111-A 番の震災時の住人だった M.ラッセルは、高齢のため英国病院の断崖を下ることができず、火災のために落命しました。
■120 番のラフィン本家の手前で諏訪町通りを下り、コンビニの先を左へ入ります。閑静な住宅地内を少し進むと、右手に少し急な坂が見えてきます。次の写真には写っていませんが、坂の下には北方(きたがた)小学校があります。

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■坂を下って道が平坦になったところで振り返ってみると、坂道が途中で「く」の字形に折れているのがわかります。

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■明治期の地図では、上から下ってきた道がこのように折れてはおらず、上の写真でいうと左の小学校体育館の方へまっすぐに延びていました。震災時、北方小学校の敷地には麒麟麦酒のビール工場がありました。それが震災で崩壊し、その跡地に北方(きたがた)地区から小学校を移転した際、この坂道を途中から切り取り、新しい道を付け替えたわけです。私が通学していた頃の北方小学校は、震災後の大正 15 年に造られたもので、昔の道を切り取ったあたりに石造りの大きな滑り台がありました。子供たちのお尻でピカピカに磨かれた立派な滑り台でした。

■道を進んで行くと、左手に少し積み方が変わっている(小口の幅が異様に広い)ブラフ積み擁壁があります。このあたりの震災時の住人は、のちに横浜の震災復興に大きく貢献する M.マーテン(Marshall Martin)でした(この人物については「M・マーテン邸跡」に書きました)。上記の坂道の経緯からすると、この擁壁は震災後にマーテンの屋敷の敷地を削って造られたと考えるのが自然です。

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■私がこれまで見てきた感じでは、ブラフ積みは明治の 30 年代から末年ごろまでが最も盛んに造られた時期のようです。震災後に造られた擁壁は、大谷石をフランス積みにしたもの(私はこれを「大谷石ブラフ積み」と呼んでいます)がほとんどです。しかし、ここは本来の房州?石で積まれています。付け替えられた道と珍しい震災後のブラフ積み、そして住人だった M.マーテンの震災前後の事績をひっくるめて、震災痕第3番札所とすることにしました。

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■余談ですが、横浜開港資料館に収められている「ブルーム・コレクション」の寄贈主ポール・ブルーム(Paul Blum)は子供の頃、自宅から先程の坂をいったん下ってセント・ジョセフ・スクールに通う道すがら、ビール工場の積まれた空き瓶めがけて石を投げるのが日課だったそうです。それにちなんで、先程の坂は「ブルーム坂」と呼んではどうかと思います。横浜山手に生まれ育ち、世界を股にかけたスパイとしても活躍したというこの興味深い人物については、「Blum-san!」という叙情詩的な伝記が出版されています。

■下の写真は、2007 年に下の宅地の造成工事があり、たまたまこのブルーム坂の勾配を障害物なしに眺めることができたときのものです。下に写っているレンガ積みには明治期の刻印レンガが使われていましたが、いまはこの光景も刻印レンガも見ることができません。

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■なお、近くには、震災時に谷崎潤一郎邸があったほか、居留地時代を偲ばせる敷地境界石が多く現存しています(「山手に残る敷地境界石」を参照)。興味がある方は探してみるのもいいでしょう。(2013/02 記)

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