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山手に残る敷地境界石境界石シリーズ(3) |
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■そこで、敷地境界石が実際にどれくらい残っているのか、山手歩きの折々に探してみたところ、これまでに公道上から確認できたものだけで右欄の6個が見つかりました。これらはみな、関東大震災や幾多の土地所有者の移り変わりと建物の建て替えを生き延び、おそらくは百年以上もほぼそのままの位置で役目を果たしているわけで、ブラフ積み擁壁と並んで、かつての横浜を語る貴重な「遺石」です。 ■(1)と(2)は、どちらも横浜開港資料館や外人墓地前のレストラン・カフェ『山手十番館』前に展示されている居留地界石と寸法および材質が似ているので、同時期に設置されたもののようです。また、現存する敷地境界石の中では最も古そうな感じを受けます。
■(3)から(6)までは、(1)(2)より堅い材質の石でできており、寸法もみな五寸角です。(4)(5)(6)の埋まっている土地は明治18年に政府に買い上げられ、明治20年に新たに貸し出された外国人居留地です。その頃に設置された境界石と考えてもよさそうです。
(2010年5月初稿、7月補記、2011年11月改訂、2012年9月追加、2013年9月訂正、2019年2月補記) |
▼現在は民家の塀と一体化しており、表面の「七番」の文字しか識別できませんが、側面に文字はないようです。基部がひとまわり大きくなっており、埋めたときに土となじませるためか、いくつも斜めの削痕が入っています。(横幅24.5cm、奥行き不明、基部までの高さ 35.5cm) ▼公道側は上の写真のように中央の仕切り線の右側に「七十五」、左側は「田」のような文字の上部だけが見えます。左側は76番地の甲にあたる場所なので、「甲」だろうと思われます。設置時期は明治8年ではないかと思われます。
▼縦の仕切り線の右に「二百」と読めます。その上にも「七」のような文字がありますが、枝番とも思えないので意味不明です。左側の文字部分は残念ながら失われていますが、仕切り線は正しく石壁とレンガ壁のまんなか、つまり地所の境界を指しています。
▼八寸×六寸の古い?タイプですが、上部に最近のものと思われるハマ菱マークの金属製境界鋲が打ち込んであり、バリバリの現役です。この場所、とっくの昔に「北方・見晴通り」のページに掲載したところなのですが、この境界石は見落としていました。 |
▼谷戸坂通りに面して「甲百四十二番」という文字が明瞭に読めます。左右の両側面にも、一部欠けていますが同じ地番が刻まれています。「番」の上部の間延びした感じが、(1)の「番」とよく似ています。
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▼南側の面に「神奈川」の文字がくっきりと見えます。その下は「縣」の上部のようです。
(6)268/269番地境界石。 ▼西山手の共立学園前の公道に面して存在します。他の境界石と異なり、番地の前に山手の文字が刻まれています。明治32年に居留地制度が廃止され、「山手町」が新設された後に設置されたものと思われます。このため、参考までに追加しておきます。正面以外に刻字は見られません。(縦横13×15cm、埋め込み部分までの高さ27cm) |
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