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山手震災痕めぐり

第4番札所

地中に残る麒麟麦酒・天沼工場

■マーテン邸の擁壁を左に見て道なりに進むと、北方小学校の校庭が終わったところに、大きな石碑の建つ小さな公園があります。諏訪町通り側の門柱には「麒麟園」と刻まれていますが、地元では「キリン公園」の名で親しまれています。震災時には、この公園をはさんで坂の上の北方小学校から坂下の住宅地にかけてが麒麟麦酒の工場でした。そうは言っても、実際に見れば分かるとおり、日本を代表するビール会社の本拠地としては非常に狭い場所です。レンガ造りの工場が震災で全壊したのを機に、キリンビールの工場は現在の生麦に移転してしまいます。
■震災前には、麒麟麦酒の 2〜3000人の従業員が出入りし、近くには何軒かの劇場ができるほど繁盛したこの天沼(あまぬま)一帯も、震災後はひっそりと静まりかえった住宅地に大きく変貌しました。しかし、地中にはビール工場の遺構がいまも残っています。近隣の住宅地で建て替え工事などが行われると、赤レンガの瓦礫が出土するのも珍しくありません。下の写真は 2011 年に撮影したもの。つい最近まで一部が残されていましたが、現在はすべて埋め戻されています。丸く湾曲したレンガ塊は、アーチ型の窓の上部でしょうか。かつてのビール工場の写真は「ビヤ坂の巨大石碑」のページに掲載してあります。

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■キリン公園の脇を抜けて諏訪町通りに出ると「ビヤ坂」です。「ビヤ」とは言うまでものなくビールのことです。私の中学時代からの友人は、祖父が保土ヶ谷で酒屋を営んでおり、この天沼まで大八車で(たぶん)ビールを仕入れに来たときは、この坂が一苦労だったとよく語っていたそうです。いま見ると、それほど急な坂には見えません。モータリゼーションに慣れてしまった目のせいでしょうか。

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■さて、この写真で道路の左端の白線を下からたどってゆくと、面白いことに気が付きます。途中で道路が一部分だけ広くなり、左側のサンモール・インターナショナル・スクールの敷地側に「く」の字形に食い込んでいるのです。そして、その食い込んだ部分に立って見ると、ちょうど真向かいに「麒麟園」の門柱があり、さらにその延長線上に麒麟麦酒の大きな記念碑が位置しています。次の写真のような具合です。

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■ちなみに、この 2 本の門柱の間は現在このような花壇になっていますが、昭和 40 年代?ぐらいまではキリン公園に入る石の階段がありました。つまりここがキリン公園の正面入口でした。さらにさかのぼれば、震災前の麒麟麦酒工場の正門の位置がこのあたりらしいのです。ここだけ道幅が広げてあるのは、それと何か関係があるのでしょうか。
■ビヤ坂から北方小学校の外周を進んで行くと、ブラフ積みもどきの石組擁壁が続いています。これは上の大型マンションを建てた後に、このあたりの古いブラフ積みを撤去して造られた新しいものです。最上段だけ長手積みにするブラフ積み本来のスタイルも踏襲されていません。かつてのこの擁壁の姿は「山手・南坂」のページでご覧ください。
■北方小学校の正面入口まで進んだら、次は左手の南坂をのぼりますが、その前にもう数メートル先まで歩いて行くと、次の写真のようなビール井戸の遺構が見られます。ただ、私が小学生の頃に見た井戸は、この場所ではなく、もっと奥に入った位置にあったように記憶しています。私の記憶違いか、校舎建て替えの際に位置を移したのかよくわかりませんので、震災痕には数えませんでした。(2013/02 記)

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