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山手震災痕めぐり

第5番札所

May They Rest in Peace...山手外人墓地

■北方小学校の正門前から南坂をのぼって山手の本通りに出ます。急坂をまっすぐ進んでもよし、途中を右に入り、諏訪神社と「ブリキのおもちゃ博物館」の前を通って山手本通りに出るのもいいでしょう。どちらも途中にブラフ積みが見られます。南坂については「山手・南坂」のページにくどいくらい書いているので、ここでは触れません。
■本通りに出たら右へ折れ、外人墓地に沿って進みます。このあたりは山手観光のメッカです。気候の良い 3 月から 12 月までの週末と祭日には、外人墓地の一部が募金公開されており、ふだん入れない墓地内を見学できます。入口で 200 円以上を募金箱に入れて見学してみてください。

■墓地の中には、震災当日の日付が刻まれた墓石がいくつも見つかります。震災痕巡りとしては、やはりここは欠かせませんので第5番札所としました。下の写真は、たまたま目に触れて撮影していたピーコック夫妻のお墓。この夫妻については、このあと訪れる山手公園の脇に住んでいたこと以外、私には知識がありません。

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■その他多くの被災者の墓石のうちから、ここでは上記の募金公開の見学コースから見ることができる2人のお墓を紹介しておきます。
■一人は震災前の横浜の外国人社会で名物的存在だったというホイーラー医師(Edwin Wheeler)です。ホイーラー医師は明治初年に英国海軍軍医として来日、軍籍を離れてからも横浜にとどまり、約半世紀にわたって医師として、また居留地住民の世話役として人々の尊敬を集めていました。彼が取り上げた赤ん坊は千人を超えたと言われます。ただ、明治 29 年のカリュー夫人事件を扱ったドキュメンタリー『横浜・山手の出来事』(徳岡孝夫著・文藝春秋社刊)を読む限り、医術の腕前よりも、かつて同国人の危急を救いに東京から新潟まで3日間馬を飛ばして駆けつけた武勇伝や親しみやすい性格などが敬意を払われた源だったように感じられます。

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■震災当日は、日課としていた親友との昼のシェリー酒を楽しむため、山下町にいたところを地震に襲われました。建物の下敷きになることはまぬかれたものの、我が家のある山手に帰る途中、瓦礫に道を阻まれ、火災によって命を落としました。享年 83 歳。たしかにその老齢では「震災画像」コーナーの「本町通りは瓦礫の山」のページに見られるような瓦礫の山を越えるのは無理だったでしょう。
■もう一人はフェリスの3代目校長 カイパー女史(Jennie M.Kuyper)です。カイパー女史は、前年にフェリスの第3代校長に就任、夏休み明けの授業再開に向けて、準備のため避暑地の軽井沢から帰浜して校舎内で職務中、倒壊した校舎にはさまれ、身動きが取れなくなりました。生徒や職員らが必死に助け出そうと試みる中、迫り来る火の手を前に、生徒らに自分を放置して逃げるよう命じ、自らの運命を受け容れたといいます。

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■なお、フェリスと震災については、フェリスの女学生たちが震災当日の自身の出来事を綴った作文集『関東大震災・女学生の記録』が 2010 年にフェリス女学院から刊行されています。また、外人墓地については最新の研究結果が『横浜外国人墓地に眠る人々』(斎藤多喜夫著・有隣堂刊)として昨年夏にまとめられています。それと、根岸の外人墓地に葬られている震災被災者については、「震災被災者が眠る根岸外国人墓地」のページをご覧ください。本当は「震災痕」としては根岸墓地の方が相応しい気がするのですが、山手からは外れます(最近は「根岸」という歴史のある地名を使わず、根岸を山手の一部であるかのように誤解を誘うマンション業者が多いようなので念のため)。(2013/02 記)
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