■ちなみに、その明治8年のリストと敷地境界石のページに示した敷地境界石が残っている番地とを突き合わせてみると、興味深いことがわかります。山手7番地と山手142番地は、その測量番地リストに含まれておらず、75番地は含まれています。ということは、7番地と142番地については、明治8年以前にすでに信頼するに足る測量が済んでいて、その際に敷地境界石も立てられていたのではないでしょうか。
■そう考えると、7番地と142番地の敷地境界石が75番地の敷地境界石よりも古そうに見え、石の種類が異なることも説明がつきます。また、7番地と142番地の境界石が「山手居留地発足直後」のものだとすると、142番地の境界石の裏面に刻まれている「神」の1字は、「神奈川縣」でないのかもしれません。
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結論として
■繰り返しになりますが、今回確認した居留地境界石は明治元年以降(下限は明治32年まで)に立てられたものであることは確実です。設置時期は、明治8年の5〜6月の可能性が非常に高いでしょう。開港資料館と山手資料館に残っている居留地境界石ほど古くはありませんが、元々の場所に残っているという点で、それらに劣らない非常に貴重なものだと思います。できれば、このままそっと残しておいてほしいと思います。 ■居留地境界石は、昭和62年当時、5つが残っていたそうです。今回のものがそのうちの1つかどうかわかりませんが、今回の「発見」で、それら以外にもまだどこかに居留地境界石が埋もれているかもしれないという期待がふくらみました。 (2011年11月記)
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