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古色を秘めた道路境界石

境界石シリーズ(4)

「道路境界石」は、その名のとおり住居地と道路との境界を示すもので、山手に限らず各所に多数見られます。ほとんどが関東大震災以後のものと思われ、このサイトの関心からは少し外れるため、これまで特に注意を払っていませんでした。しかし、見尻坂の居留地境界石と一緒に残されている道路境界石が見つかったことから、関東大震災以前までさかのぼりそうな古いものがわずかながら残っていることに改めて気付かされました。

■それらについては、あまり調査や研究がなされていないようで、詳細を記した資料も見当たりません。来歴すらはっきりしないのですが、とりあえずこれまでの古壁ウォッチングから得た知識をまとめてみました。ちなみに、日本での道路法の制定は震災前の大正8年(1919年)ですが、それと道路境界石との関係についてはわかりません。

このページでは、画像や《》で囲まれたテキストにマウス・ポインターを置くと、境界石の文字のトレースなどの補足画像が表示されます。

見尻坂の道路境界石

■山手・見尻坂(別称・宮脇坂)の居留地境界石と仲良く隣り合って、《「…路境界…」》と刻字されたこの境界石が残っています。「…路」は、残存部分から推定して「道路」と考えられます。また、上から覗き込んでよく見ると 《「境界」の下に「標」と思われる文字》が続いているようです。つまり完全な文面は「道路境界標」となります。刻字面は道路を向いていて、この写真の向かって左側の露出面に文字は見られません。上面の中央には境界点を示す穴があります。

■寸法は横幅(刻字面)8寸×奥行7.5寸で、上から見て正方形に近い形です。高さは全長1尺5寸ですが、下部には地中に埋め込まれていたと思われる膨らみがあり、それを除くと1尺2寸になります。埋め戻された時期などは不明です。周囲の状況から考えて、過去の道路整備や住宅建設の際に何度か掘り起こされていると思われますが、当初の位置から大きく動いてはいないようです。

見尻坂道路境界石

(2013 Sept)

つつじ坂の道路境界石

■一方、つつじ坂(別称・土方坂)と西野坂にも、それぞれに道路境界石が残っています。つつじ坂のものは、これも最上部の文字が完全ではありませんが、《「道」》の字の下半分はよく判別できます。また、《「界」》の字の下にわずかに彫り跡のようなものが認められ、見尻坂の道路境界石や、この後で述べる西野坂の道路境界石を参考に考えると、「標」の文字が続いていたと考えられます。

■この石には、向かって左の側面にも《「神奈…」》と読める文字が刻字されています。おそらく「神奈川縣」と刻まれているのでしょう。石の大きさは「道路境界…」と書かれた面の横幅が8寸、「神奈…」の面が6寸弱、高さは6寸です。他の道路境界石より背が低いのは、「標」以下の部分が欠落して埋め直されているためでしょう。背面の一部は後ろのコンクリート壁に取り込まれており、上面の3つの大きくえぐられた穴は、長年にわたって測量に利用されていたことを物語っています。

土方坂道路境界石

(2012 Feb)

土方坂道路境界石左面

向かって左の側面

■なお、この坂は横浜開港から明治初頭にかけて、このあたりに埋め立て工事の人足小屋が設けられたことから「土方坂」と呼ばれていましたが、明治39年(1906年)に元街小学校がこの坂の上へ移転した際に、当時の校長の発案で通学路につつじを植え、坂の名前も「つつじ坂」の美称に変更したとされています。

西野坂の道路境界石

■つつじ坂の道路境界石から数メートル東側の西野坂沿いに、もうひとつ別の道路境界石があります。刻字面が全体的にひどく破損しているため、ずっと正体がはっきりしませんでしたが、見尻坂の道路境界石をヒントに最後の文字を《「標」》と読むことができ、これも道路境界石であることがわかりました。向かって左の側面に《「神奈…」》の文字が刻まれている点と、右の側面に文字がない点も、つつじ坂の道路境界石と同じです。大きさは正面の横幅が8寸×側面が7寸弱、高さ1尺2寸で、上面の中央には測量器具で突いたような穴があります。

土方坂標石正面

(2012 Feb)

土方坂標石左面

向かって左の側面

■このあたりは、開港期に現在の堀川の流れが入り込んでおり、その水際とも言える場所です。時代が下って関東大震災では大きな崖崩れに遭い、震災後に西野坂の道すじが変更されています。その折々でこれらの境界石がどう関わってきたのか、興味を覚えます。私には正面の文字が人為的に壊されているようにも思えるのですが...。

台山の道路境界石

■前述の例では、いずれも「道」の字が破損していましたが、それが明確に残っている道路境界石と思しき石標が、山手から1キロほど南の中区本郷町(旧・本牧村/台山=だいやま)に残っています。2011年3月に近くに住む知人から情報が寄せられ、そのときに写真に収めてありました。よく見ると、《「路」の字の上部》もトレースできます。

台山境界石2011年

(2011 Mar)

■しかし、当時は道路境界石にあまり関心もなかったので、後追い調査をしていませんでした。今回、5年を経て改めて訪ねたところ、まだ同じ地点に健在でした。刻字面の横幅は他の道路境界石や居留地境界石とも共通する8寸です。刻字面は公道に面しています。前回より深く地中に埋もれてしまっていますが、すぐ脇に電柱が新設されており、その工事の影響かもしれません。他の瓦礫と違って除去されずに残されたのは、やはり道路境界石と認識されたためでしょう。以前より少しかぶさった土をどけてやると、《「道」の字》がくっきりと現れました。

台山境界石2016年

(2016 Feb)

■さらに興味深いことに、この境界石の位置は明治初期の測量地図にすでに道路として記載されている旧道に沿っています。また、この一帯は明治十年代以降に牧場として使われていたことから、牧場主の名にちなんで「大沢谷戸」とも呼ばれています。となると、この種の道路境界石の起源は思った以上に古くまでさかのぼる可能性もあり、今後の研究対象として価値のある遺物なのかもしれません。

絵葉書に残る道路境界石?

■最後に、関東大震災前の境界石が写っている珍しい写真をご紹介します。これは「陣屋坂」のページにも載せた絵葉書の一部です。外国人の一団が歩いているのは山手の本通りで、ちょうど外国人墓地の正門の前のあたりです。この道の奥が現在の港の見える丘公園で、手前右へ折れている道が陣屋坂です。右端に写っている門柱の少し左、 《石垣の手前に小さな石柱》が見えます。

絵葉書の中の境界石

(1910年代の絵葉書から)

■この場所は、明治8年(1875)にイギリス駐屯軍が撤退した後、一般外国人居留地に編入されました。しかし、本来、居留地境界石や敷地境界石を設置する理由のない位置なので、この石柱は道路境界石と思われます。

(2016年3月記)


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