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山手に残る敷地境界石

境界石シリーズ(3)

居留地界石

■幕末から明治初頭にかけての山手の地所区割りの際、外国人居留地と邦人居住地の境界を示す「居留地界石」(写真右)のほかに、外国人に貸与された個々の地所を区切る「敷地(番地)境界石」が設置されました。横浜市教育委員会の調査報告『横浜山手』(昭和62年=1987年刊)によると、居留地界石は居留地制度の撤廃(明治32年=1899年)と同時に役目を終えたためか、調査時点で残存していたものは5個だけでした。それに含まれるかどうかはわかりませんが、2023年時点で、設置当時の位置に残っている居留地境界石は2つあります。

■これらについては「現役の居留地境界石を確認」のページと「見過ごされていた居留地境界石」のページに詳細を記してあります。それ以外に、本牧の八聖殿にも、ほぼ完全な形の居留地境界石が大切に保存されていますが、これは収蔵された経緯がはっきりしないためか、まだ公開されていません。

■一方、敷地境界石については、上記の『横浜山手』では「...現在も各所に残されていて、居留地時代を偲ばせている」とだけ記されています。

■そこで、居留地時代からと思われる敷地境界石が実際にどれくらい残っているのか、山手歩きの折々に探してみたところ、これまでに公道上から確認できたものだけで、以下に示す(a)から(j)までの 10 個が見つかりました。これらはみな、関東大震災や幾多の土地所有者の移り変わりと建物の建て替えを生き延び、おそらくは百年以上もほぼそのままの位置で役目を果たしているわけで、ブラフ積み擁壁と並んで、かつての横浜を語る貴重な「遺石」です。


(a)(b)は、どちらも横浜開港資料館や外人墓地前のレストラン・カフェ『山手十番館』前に展示されている居留地界石と寸法および材質がよく似ているので、同時期に設置されたもののようです。また、現存する敷地境界石の中では最も古そうな感じを受けます。
(a)7番地境界石
7番地境界石

▼現在は民家の塀と一体化しており、表面の「七番」の文字しか識別できませんが、側面に文字はないようです。基部がひとまわり大きくなっており、埋めたときに土となじませるためか、いくつも斜めの削痕が入っています。(横幅24.5cm、奥行き不明、基部までの高さ 35.5cm)

(b)142番地境界石
142番地境界石

▼谷戸坂通りに面して「甲百四十二番」という文字が明瞭に読めます。左右の両側面にも、一部欠けていますが同じ地番が刻まれています。「」文字の上部の間延びした感じが、(a)の「番」とよく似ています。

142番地境界石の裏面
142番地境界石裏面
▼裏面には「」の1文字だけが確認できました。神奈川の「神」ではないかと思われます。この境界石は唯一『横浜山手』に約20年前の写真が載っていますが、それ以後に破損しており、破片が近くに散乱していました。(横幅24.5cm、縦17.7cm、基部までの高さ34.5cm。昔の八寸×六寸、高さ一尺ちょっとという規格でしょうか)

(c)から(f)までは、(a)(b)より堅い材質の石でできており、寸法もみな五寸角です。(d)(e)(f)の埋まっている土地は明治18年に政府に買い上げられ明治20年に新たに貸し出された外国人居留地です。その頃に設置された境界石と考えてもよさそうです。

(c)75番地境界石
75番地境界石

▼公道側は上の写真のように中央の仕切り線の右側に「七十五」という文字が、左側は「」のような文字の上部だけが見えます。左側は76番地の甲にあたる場所なので、「」だろうと思われます。設置時期は明治8年ではないかと思われます。

75番地境界石の側面
75番地境界石の側面

▼右側の75番甲に面した側面(写真右)には、中央に「七十五」とだけ書かれています。(縦横 15.5cm、高さ 31cm)

(d)265番地境界石
265番地境界石南面

▼265番地境界石では、南側の面に「神奈川」の文字がくっきりと見えます。その下の半ば埋もれた文字は「」の上部と推定されます。

265番地境界石の西面
265番地境界石西面

▼一方、西面ははっきりしませんが、下の方に「二百六」と刻まれています。その上の文字は「」の字でしょうか。(縦横15.5cm)

(e)268番地境界石
268番地境界石

▼縦の仕切り線の右に「二百」と読めます。その上にも「」のような文字がありますが、枝番とも思えないので意味不明です。左側の文字部分は残念ながら失われていますが、仕切り線は正しく石壁とレンガ壁のまんなか、つまり地所の境界を指しています。

(f)268/269番地境界石
268/269番地境界石

▼このあたりは山手で最後に(明治20年)造成されて居留地に編入された土地であるせいか、保存状態がよく、刻まれた文字も風化がさほど進んでいません。中央仕切り線の右に「第二百六十八番地」、左に「第二百六十九番地」と刻まれています。側面には「神奈川縣」とあります。(縦横15.5cm、現在の地面までの高さ 31cm)


(g)136番地境界石
136番地境界石
 
▼山手から聖坂(ひじりざか)を下った見晴(みはらし)通り沿いに136番地境界石があります。大きさは八寸×六寸で、文字の書体や石の材質は前述の7番地や142番地の境界石によく似ています。

▼現在も境界標として使われていることを明示するように、天面の中央にハマ菱マークが付いた金属製の鋲が打ち込まれています。この鋲は、割に最近のもののようです。この境界石のある場所は、以前に「北方・見晴通り」のページで触れたところで、関東大震災以降に何度か道筋が付け替えられています。

 
136番地ブラフ積み擁壁

▼左の写真のようにブラフ積み擁壁を背にして立っており、居留地時代を彷彿させます。


■山手の西端、打越地区にある敷地境界石群

▼以下で紹介する(h)(i)(j)の3つの敷地境界石は、コロナ禍のまっただ中、2021年春にNPO法人横浜シティガイド協会の方からの連絡で知りました。この場所は関東大震災後に市電を通すために大規模な開削工事が行われた道路沿いであるため、まさか居留地時代の古い境界石が残っているとは思ってもいませんでした。

打越地図

(h)224番地境界石
山手224番地境界石

▼地図のにある224番地境界石。山手本通り側の面に「二百二十四」の文字(最初の二は欠落)」が認められます。3つのうちでは最も古いものと思われます。発見当時は宅地の整備中で、文字部分の剥落が進んでいたため存続が危ぶまれました。その後、部分的に補修されて残されましたが、文字部分が失われるのは時間の問題かもしれません。写真は2022年12月時点の撮影。

▼この境界石の西側(横浜駅根岸道路側)の面には、仕切線を挟んで左右に「四」の文字のみが確認できます。左が「乙二百二十四」で右が「丙二百二十四」だったと思われます。

 
(i)223番地丙丁境界石
山手223番地CD境界石

▼地図のにある223番地・丙/丁の敷地境界石。かなり傷んでおり、解読に手間取りましたが、置かれている位置から考えると左が223番地の「丙」、右が223番地の「丁」と思われます。2021年8月撮影。

▼南側(山手本通り側)の面に「神奈川縣」と思われる文字がかろうじて判読できます。

 
(j)223番地乙丙境界石
山手224番地BC境界石
 

の位置にある223番地・乙/丙の敷地境界石。仕切線を挟んで左が「ニニ三乙」、右が「ニニ三丙」と読めそうです。3つのうちでは最も新しいようで、五寸角の花崗岩でできています。下部の黒ずみは、もしかすると震災や空襲などでの火災の跡を物語るものかもしれません。2021年4月撮影。  


■その他

(参考)山手214番地境界石
山手214番地境界石

▼西山手の共立学園前の公道に面して存在します。他の境界石と異なり、番地の前に山手の文字が刻まれています。明治32年に居留地制度が廃止され、「山手町」が新設された後に設置されたものと思われます。居留地時代のものとは言い難いので参考として追加しておきます。正面以外に刻字は見られません。(縦横13×15cm、埋め込み部分までの高さ27cm)

古い境界石1 ■そのほかに、文字が確認できなかったり、寸法が少し異なっていたりしますが、同様な古さを感じさせる境界石らしきものがいくつかあります。右の写真は(d)のすぐ近くに埋め込まれている縦横18cm(六寸角)のものです。
古い境界石2 ■もう1つは山手公園内に存在します。後ろの変則ブラフ積みがこの境界石を避けて造られているので、相当古そうです。すぐ近くに「境界」とだけ刻まれた境界石もありますが、それはもっと時代が下ると思われます。

(2010年5月初稿、同7月、2011年11月、2012年9月、2013年9月、2019年2月、2023年12月改訂、2024年6月追記)


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